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2024/09/01(日) 聖霊降臨節第16主日礼拝 宣教

聖書:エレミヤ28.1-17/一ヨハネ5:10-21

宣教:「永遠の命を得ているらしい」

賛美:194,81,29


導入

最近YouTubeを見ていると、Shortに色んな動画が上がってきます。わたしが検索したり視聴する動画の傾向を読み取って、興味を引くものを勧めてくるんです。おじさんが野外でビールと焼き鳥を食べる動画だったり、ワインを飲む猫の動画といったものです。

一方で、特に見たり検索した覚えのない、あおり運転の映像や、地震・津波によって倒壊する家の映像が、時期によって頻繁に出てくることがあります。その時期多くの人がこういうのをよく見たり検索していると出てくるようです。

最近気になるのが、外国人や移民の生活保護受給に関する動画がよく上がってきます。そのほとんどが「日本人はこんなに苦しんでいるのに外国人ばかり優遇してどういうことだ」というような内容で。

不満や攻撃的な内容が多いのですぐ別の動画を見るのですが、それでも定期的にそういう動画が上がってきます。それだけそういう感情が色んなところで膨らんでいるのだろうかと考えます。

実際このことについて色んな問題があるでしょう。しかし、あまり取り沙汰されることのない、入管収容施設で起こっている密室の人権侵害や、一部を見て全体を決めつけるような人種差別の問題が頭に浮かんで、わたし自身はモヤモヤした複雑な気持ちになります。

国内でも世界でも、色んな問題の解決の仕方が排他的になっているように感じて、このままでは様々な人がお互いに生きにくい世の中になることが加速するのではないかと思うのです。一方で、どうすればそうならずにすむのか考えても、どこかで悲観的になっている、諦めかけている自分がいます。

たぶん今、今までにないくらい様々な人が「生きにくさ」を感じる世の中になっているのでしょう。それはわたしが懸念する、排他性や攻撃性に関連しているのでしょう。実際、「生きること」自体に希望や楽しみを見出すことが、多くの人にとって困難になってきているのではないでしょうか。

「生きる」ということについては、最も厄介な概念が、ある手紙に出てきます。それはさっき朗読されたヨハネの手紙一に出てくる言葉です。皆さんは、特にヨハネ福音書を読んでいて見つけたことのある言葉かもしれません。「永遠の命」という言葉です。

永遠の命とは何なのか

  • 「永遠の命」は、牧師としてのわたしにとって「質問されたくないキリスト教用語」の筆頭です。子どもの頃、ふと思い立って教会学校の先生に「永遠の命って何ですか?」と質問したことがあります。

  • 今思えば、“牧師の子なんだから親に聞いてよ”と心の悲鳴を上げていたのではないかと思います。先生曰く「んー、永遠の命っていうのは…ほら、ほら、あれだ、感じるだろう?みんな感じるだろう?」。あれ以来暫くの間「永遠の命」は、わたしにとってブラックボックスでした。

  • そもそも皆さんにとって「命」とは何でしょう?聖書において「命」と対局にあるのは「死」です。例えば申命記30章15節で、モーセは神の言葉を民にこう伝えています。「見よ、わたしは今日、『命』と幸い、『死』と災いをあなたたちの前に置く。」

  • そこでの「命」とは、「神の意志を行うこと」でした。「命」とは、あなたの神、主を愛し、その意志と命に従って自分を形づくっていくこと。逆に言えば「死」とはそれを拒むこと、神の意志を拒み、神ではないものに従って自分を形づくってしまうことです。

  • 例えばわたしは、実際「死」を選んでしまう時があるでしょう。神の意志と命に従うことを拒み、神ではないものに従って自分を形づくってしまう時というのが。それは、「排他的・攻撃的になる世の中は、もうこのまま加速していってしまうのだ」と悲観的に受け入れそうになる、世の流れに乗ろうとするまさに今かもしれません。

  • 神の意志を行うことを放棄しようとする人々の姿は、繰り返し聖書に現れていました。民が社会的・政治的な不義不正を受け入れてしまっていた時代、大国に支配され、抑圧され、貧しい者、病気の人たちが虐げられていた時代、人々は神の意志に従って自分たちを形作る「命」を選ぶのではなく、そうではない方、「死」を受け入れることを何度も繰り返してきました。

  • ユダヤ人を排除し、ガス室送りにするナチス・ドイツに教会が迎合した時、キリスト者は「死」を選び取ったのでした。わたしたち日本基督教団が戦時下において国家に同調し、戦争遂行に協力した時、わたしたちは「死」を選び取ってしまったのでした。

  • 世界的にも軍備拡大が進み、国内でも他国に対し、思想信条の違う人々に対し、排他的攻撃的になっていく雰囲気の中で、わたしたちはまた「死」を選び取ってしまわないでしょうか。

  • しかし、わたしは思います。逆に「永遠の命」とは、様々な局面で「命」ではなく「死」を選んでしまうわたしたちに働きかけるもの、神が与えようとし続けるものなのだと。

  • 神はわたしたちにイエス・キリストという救い主を与えました。この方は福音書の初め、「神の国は近づいた」と言って働きかけてきます。

  • イエスが言われたこの「神の国」を、ヨハネ福音書で言い換えたものが「永遠の命」という言葉でした。そして「永遠の命を得る」とは「救われる」の言い換えでもあるのです。それは、いつかこの地上に神の意志が徹底して行われる世界が実現することであり、神の業がすべてに及ぶことです。

  • 今日のヨハネの手紙では、さらに進んで、「永遠の命」はイエス・キリスト自身のことも指すようになっています(「この方こそ、真実の神、永遠の命です」というように)。

  • つまり、「永遠の命を得る」とはどういうことかというと、「わたしたちがイエス・キリストの救いの業の内にいる」ということ、そのことを信じて生き、自分の命を形づくるということなのです。

  • 聖書はなぜそれを「永遠の命」というのでしょうか?「永遠の」という言葉はわたしたちにとって「限りない」「消えることのない」イメージを持つものです。「永遠の」という響きは、「限りある」「消えてしまう」ものでは「ない」ことを強調します。

  • 新約の手紙が書かれた時代、「永遠の」という響きは、今ははっきりわからなくても、いつか必ず到来する神の救いの時、神の業が徹底して実現される「終末」をイメージさせるものでもありました。

  • つまり、「永遠の命」とは、神の業、イエス・キリストの救いの業が、これまで長く続いてきたのであり、決して立ち消えないし、いつか(終末に)徹底的に成し遂げられるもの、ということを、わたしたちに忘れさせない言葉なのです。

  • もっと言えば、「死」の力が大きい時、「命」なんてない、神の意志を行うことなどできない、イエス・キリストの救いなんて今ここにはない、と思わされるような力がわたしたちに働く時、わたしたちに必要なのが「永遠の命」なのだと思うのです。

エレミヤの預言

  • 今日最初に朗読したエレミヤ書は、イスラエルの人々が「命」を選ぶことが困難だった時のことを描いています。この時イスラエルはバビロニアという大国、異教の神々を祀る国家によって支配され、抑圧されていました。

  • 自分たちは神の民のはずなのに、なぜこんなことになったのか、共にいると思っていた神はいないのか、何もしてくれないのか、いったい神の意志は何なのか、イスラエルの民は困惑しました。

  • まるでバビロニアという「死」の力に覆われているような状況でした。救いなんてない、神などいないように思えてしまう。

  • だからこそ彼らは、わかりやすい救いの言葉に飛びつきたくなりました。今の状況というのは何かの間違いなのだ。神は今にも自分たちに勝利をもたらし、この軛から開放してくれるはずだと。

  • 彼らはハナンヤという預言者が自分たちの耳に心地よく語ってくれるのに魅了されます。神はすぐにも、二年後にも、自分たちをバビロニアから解放するという言葉に。他の国々と同盟を組み、今すぐバビロニアに蜂起すべきだと多くの人が考えました。

  • それは踏み込んで言えば、「今ここに」「救いはない」と考えることでした。「今ここに神の業などない。ここに神の意志など働いている余地はない」と。それは神の言葉に耳を澄ますことをやめてしまうことでした。それは逆に「命」ではなく「死」を選ぶ行為でした。

  • 神の意志と命に従って自分たちを形づくることを拒んだハナンヤの言葉は実現しませんでした。ハナンヤは、自分たちイスラエルの民に都合よく預言した、バビロンから解放されると言った二年後に至ることなく、二ヶ月で死にました。ハナンヤが語るわかりやすい安易な救いは、彼自身をも「死に至らしめる」ものでした。

  • 「命」を選ぶにはどうしたらいいのでしょう。神の意志と命に従い、自分の命を形づくるにはどうすればいいのでしょう。それは「今ここに」立ち働く神の業を見つめることから始まります。

  • エレミヤはイスラエルの民に、バビロニアによって支配され抑圧されているこの状況は、神の手によるものなのだと伝えました。今苦しんでいる自分たちの状況は、救ってくださるはずの神が「何もしていない」のではない、神が自分たちに働きかけている状況そのものなのだと。これははねのけるべきものなのではなく、受け入れるべきものなのだと。

  • 自分たちが死の力に覆われるような、苦境の中にいる「今、ここに」神の働きを認めることこそが、本当は救いの始まり、「命を得る」ということでした。「神の業は死んでない。主は生きておられる。バビロニア帝国によって苦難の内にあるこの状況で、神はどのように働いておられるのだろう?」「…神は敵を懲らしめないのではなく、敵を用いてさえ今わたしたちに働きかけておられるのでは?」

  • 「永遠の命」を受け入れるとはそういうことでした。「永遠の命」とは、今ここに、神の業が生きているなんて思えない時、今ここで、神の意志と命に従って自分を形づくることを諦めそうになる時、「主は生きておられる」とわたしたちが思い出すことです。「イエス・キリストは復活され、今ここで働きかけておられる」と思い起こすことです。

  • どうか今、わたしたちが神の意志と命に従い、自分たちの命を形づくることを止めるのではなく、永遠の命を与えられていることを信じて生きますように。

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