聖書:ヨブ28.12-28/一コリント2:11-3:9
宣教:「ただの人を通して働きかける神」
賛美:360,498,29
こうすればうまくいく
今日朗読されたヨブ記の箇所は、「どこに知恵が見出されるか」「分別はどこにあるのか」と知恵の探求について言っているもの。
情報社会になった今、わたしたちは普段から「これが正しい」「あれが正しい」という意見に出会う。「これからの時代、これをしていなければ失敗する」とか、「競争社会で生き残るためにはこうしなさい」とか。
先日8日に宮崎県で発生した地震は震度6弱を観測し、マグニチュード7.1という大きな地震だった。また、この地震を受けて気象庁から、南海トラフ地震の想定震源域で大規模地震が発生する可能性がふだんより高まっているという発表があった。
今の内に防災グッズはこれを揃えておいた方がいい、いざというときの家族の動きを確認しておいた方がいいと、多くの人が今どうしておくべきか調べたり考えたりしているはず。
一方で、色々準備したとて、どうしても安心しきれない部分が残る。ここまでしていれば大丈夫だろうと思える人はなかなかいないのではないか。想定外の土砂崩れが起きたら?問答無用で家自体が倒壊したら?というように。
わたしたちの中に、「こうすれば絶対助かる」という「絶対的な知恵」はない。すべては神のみぞ知ること。どんな人間にもすべてを見通す力はない。
しかし、そう分かっていても、わたしたちは自分たちの間に、何か絶対的な答えを持つものがあるのではないかと期待してしまう。
「先生」と名のつく人や知識豊富な配信者に、その人の領域を越えた質問をしたりする。「専門家」と名のつくものに、その分野の全てを知り尽くしていると思いこむことがある。この人が政治家として当選しさえすれば、色んなことがうまく回るはずだと思う。
わたしたちはよく、わかりやすい答えを示してくれる賢者を探す。尊敬する恩師だったり、皆から一目置かれる有名人だったり、誠実さがにじみ出るタレントだったり。良くも悪くも牧師がその対象になることもあるかもしれない。
真の知恵はどこに
しかし、今日のヨブ記の言葉は、真の知恵を誰かに見出したいわたしたちを打ちのめす。
「知恵はどこに見いだされるのか」、その問いに対して冒頭から、人間にはその価値を知ることは出来ないし、この世ではそれを見出すことはできないと言う。深い淵は「わたしの中にはない」と言っていて、海も「わたしのところにもない」と言う。
「知恵はすべて命ある者の目には隠れている」(21節)という言葉によると、知恵の探求は失敗に終わるもの。真の知恵は教育によって獲得することも、物体のように掴むことも出来ない。
ヨブ記は、本当の知恵というのは神しか持たないものなので、人の学問や分別の範疇を越えているのだと言う。真の知恵は命を生み出した神からのものであるゆえに、知識の対象以上のものなのだと。
わたしたちも本当は分かっている。すべてを知り、必ず正解を選び続けることのできる人間はいないし、そのような知恵が書かれた書物などないと。自分たちは本当はどうすればいいのか探り求め、考え続け、右往左往するしかない存在であることを。
でも、この人の言う事さえ聞いていれば間違いないと思える誰かに縋りたくなってしまう。自分の判断や選択を明け渡して、この人に付いていくことが正解だと思いたくなる。
何についていく
今日朗読されたもう一つの箇所、コリントの信徒への手紙はパウロという初期キリスト教の指導者が宛てた手紙だが、コリントの教会ではまさに、「この人についていくことが正解」というかのような考えが、人々の間にあった。
パウロによれば、〔ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っている〕状況があった。
コリントの教会はパウロの宣教旅行によって誕生した教会だが、パウロが宣教旅行を続ける間、アポロという福音宣教者が教会の人たちを指導していた。
「手紙は強気だが、いざ会ってみたら話しは長いしつまらない、あんな頼りないパウロを信望しても仕方ない。今わたしたちの間で様々なことを教えてくれるアポロの言うことを聞くべきだ」という人がいれば、「アポロは所詮、パウロの後にやって来たに過ぎない。この教会を創立したのはパウロなのだから、わたしはパウロの言う事を聞く」という人もいる。
ある種教会の中に分断が発生していた。手紙を読んでみると、当の祭り上げられている本人たち、パウロやアポロにとっては、そのように慕われるのは不本意だったようなのに。
どうもコリントの教会の人たちは、「この人について行く」という、わかりやすい正解を選ぶことに躍起になっていた。パウロやアポロといった指導者の人格、持っている知識、知恵を見聞きして、「この人の言う事さえ聞いていれば大丈夫」「この人についていけばうまくいく」という安易な思考に陥っていた。
しかしパウロにとって、自分やアポロといった福音宣教者は、誰かから「この人についていけば大丈夫」と思われるような存在ではなかった。
コリントの教会を立て上げた自分にしても、その後教会の発展に尽くしたアポロにしても、神に用いられているに過ぎない存在。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」と言うように。
今、教会にとっても、もっと広い世の中にとっても、わかりやすい指導者に縋り付く、自分の判断や思考を明け渡すというのは、実はかなり危ういことなのだと思う。
8月は日本の教会にとって、平和を祈り求める月でもあるが、かつて戦争がどのようにして起こっていったのか、今一度見つめ返すべき時なのだと思う。
日本にしてもドイツにしても、わかりやすい指導者にいろいろなものを安易に明け渡していくことによって、戦争に突き進んでいった歴史がある。
神への、キリストへの信仰を持つということは、そういう安易な自分たちの欲求に待ったをかけることでもある。
神はいつも、ただの人間を通して働きかける方であり、わたしたちがいつも意識を向けるべきなのは、ただの人間を用いようとされる神。真の知恵の源。ヨブ記は「主を畏れ敬うこと、それが知恵」と言う。
わたしたちが、人間に過ぎない者が決して手にすることの出来ない知恵は、わたしたちにとって絶えず思いがけなさを持つ神に心を向け、神のみ心を探り求めることを辞めないことから、ようやく始まる。
特に今この時代、わたしたちが神のみ心を探り求めるという、一番厄介なことを辞めないように、わかりやすい誰かにその思考を明け渡してしまわないように、注意したい。