聖書:士師記6:36-40/1ヨハネ5:1-5
宣教:「神に『あんな人たち』なんてない」
賛美:373,81,29
繰り返し語られる「愛」
ヨハネの手紙一は、「愛」というテーマを繰り返し語る手紙でもある。今日朗読した部分は手紙の締めくくりに向かう部分。「愛」のテーマについて語る最後の部分でもある。
以前いた教会で伝道師だった時、主任牧師がこの箇所からメッセージを語る日があった。「愛」というキーワードが何度も出てくるので、メッセージの中で何度も「愛」という単語が出てきた。
礼拝堂後ろの方で親と一緒に参加していた2歳の女の子が、牧師が「愛とは」「愛が」と言う度に、小さな声で「アーイアイ」と歌っていた。かわいいのとおかしいのとで、牧師が真剣に語る中、女の子の周りは笑いを堪えるのに必死になっていた。
ヨハネの手紙だけでなく、新約には「愛」というキーワードが繰り返し現れる。「互いに愛し合いなさい」、「主なる神を愛し、隣人を愛しなさい」といったキリスト教において聞き慣れた言葉が思い浮かぶ。
今日の手紙の箇所は、イエスを救い主と信じる人は皆神から生まれた者なのだ、すでに神の子とされているのだと最初に伝える。そして、「生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」と言う。
要は、“あなたは神を信じているなら、あなたは自分以外にも神を信じ「神の子」とされている人のことも愛するはずだ”と。
「愛」と言えば、「敵を愛しなさい」というイエスの言葉が思い浮かぶ人も多いのではないか。とかく愛についての聖書の言葉はきれいなものが多いが、一方でそれはきれいごとに聞こえやすいということでもある。
そうはいっても…
「互いに愛し合いなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」「敵を愛しなさい」と簡単に書かれているけれど、わたしたちはそれを真剣に受け取るより、無意識に距離を置こうとするのではないか。話半分に聞くかのように。
これらの言葉を「その通り、アーメン」と言う気持ちと、「…まあ、そうはいっても無理」と言う気持ちが混じり合い、深く考えないようにする。
衝突している人や敵対している人がいる時に、「敵を愛しなさい」「互いに愛し合いなさい」という聖書の言葉を耳にすると、モヤモヤした気持ちになり、自分の状況と聖書の言葉を重ね合わせないようにしてしまう。
「イエス・キリストを信じているなら、あなた以外に神によってキリストを信じるようになった人のことも、あなたは愛するのだ」と言われて、わたしたちは「そうですね。実際その通りです。アーメン」と言うだろうか。
そうではない現実があることに居心地悪くなるか、そうではない現実があることに気づかないようにしようとするのではないか。
今、木曜日の夕方6時から、「夕べの祈り」という時間を持っている。フランスのテゼという修道会が、世界中から集まってくる、言語も背景も信仰も違う若者たちと一緒に祈ることのできる形を模索して出来ていった祈りの形を基にしている。
聖書を基にした短い歌を繰り返し歌い、それが祈りになっていくという静かな時間。祈りの中でテゼ共同体の歌をうたうことがほとんどだが、その日のテーマや聖句に応じて、わたしが自分で作った歌を用いることもある。
祈りの中で朗読される聖句は教会暦と関連して選ばれており、時期によって「敵を愛しなさい」という聖句が中心になる週がある。テゼの歌にも「愛」を扱ったものは多いが、「敵を愛す」ということをダイレクトにうたうものは手持ちの歌集にはない。
そこで以前、この聖句に沿った賛美歌を作ったことがあった。「敵を愛しなさい。人に良いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」という聖句をそのまんま歌うもの。
しかし、一度そこまで作って歌ってみると、それだけで終えることに引っかかりを覚えてしまった。心の中に「そうはいっても…」という気持ちがぐるぐる巡ってしまった。
だからその続きの歌詞を書いた。「敵を愛せない、わたしたちの心、変えてくださるイエスよ、来てください」と続ける祈りの歌にした。
今日のヨハネの手紙は、自分以外の人たち、神によって愛され、信じる者とされ、神の子とされた人たちを愛することについて、「わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません」と言う。
正直「いや、難しいだろ」と思う。難しいからこそ、現実はそうはいかないからこそ、ヨハネの手紙はこんなにも繰り返し共同体に向かって「愛」を語らねばならなかったのではないのかと。
実際、今日の章の直前4章の最後には、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。」「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」と厳しく語る。
おそらく、憎み合ったり、互いに愛すことが出来ないという現実が共同体の中にあったから。そしてそれは、人が集まる何かしらの団体であれば当然のこと、避けようのないことに思える。だからこそ、今の世の中は「愛」をあきらめがちなのかもしれない。
SNSやYouTubeでは、毒親とか迷惑な隣人とか、誰かとのトラブルに関して、その相手との関わりを断つような、あるいは見事な仕返しをするといった「スカッとする」話が多く上げられている。
それは泣き寝入りに対する勝利でもあるのだろうが、赦し合うことだったり、和解することへの諦めでもある。
ヨハネの手紙の著者は、綺麗事を言っているのかもしれないが、それは一方で「愛」を決して諦めていないからではないか。
わたしと、わたしがうまく一緒にやっていけないあの人やこの人を神の子として生み出し、信じさせてくださった方は、こんなわたしたちを変えてくださるのだ。救い主を信じるということは、そのことを信頼することなのだと、わたしたちに示そうとしているのではないか。
この手紙には、「世に打ち勝つ」という言い回しが繰り返し出てくる。「世に打ち勝つ」とは、わたしたちが自然この世の中で思い込むようになった「そうはいっても…」という思考に抗うこと。
“愛し合うなんて、敵を愛すなんて、そうはいっても…”と思うわたしたちに、「でもイエス・キリストを信じるというのは、こんな自分自身を変える方を信じるってことでしょ?」と語りかけてくる。
この手紙にあるのはある意味無邪気な信仰。しかし今この時代、わたしたちにこそ、必要な生き方なのではないか。