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2024/08/18(日) 聖霊降臨節第14主日礼拝 宣教

聖書:出エジプト34:4-9/ローマ7:1-6

宣教:「教科書を閉じて考える」

賛美:222,503,29


もはや律法の下にはいないとは?

  • ローマの信徒への手紙でパウロは、キリスト者は、イエス・キリストによって新しく生かされて、もはや「罪に支配されたままではない存在」であることを長い分量を割いて語っている。

  • 同時に、「罪に囚われたままではない」ことは、「もはや律法の下にいる存在ではない」ことをも意味すると、今日のところでも丁寧に説明しようとする。

  • 現在に生きるわたしたちにとって、自分たちが「もはや律法の下にいない」とはどういうことか。わたしたちは律法遵守によって信仰生活を保ってきたユダヤ社会に生きているわけではないし、律法を守って救われようとしているわけでもない。

  • しかし、律法とは当時のユダヤ人が、それまでずっと当たり前のように温存してきた価値観、考え方、生き方を形づくっていたもの。少し乱暴に言い換えるとユダヤ人の「教科書」と言えるかもしれない。

  • そう考えると、イエス・キリストを信じて生きるということは「もはや律法の下にいない」ことだというのは、今を生きるわたしたちにある意味、「教科書を閉じて考え生きる」あり方を呼びかけているように思う。

聖書時代の結婚

  • 今日の箇所でパウロは、「律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのか」と問いかけて始める。「律法」と訳されているのは単純に「法」を意味しており、ユダヤ律法とも、当時一般社会通念であったローマ法ともどちらとも受け取れる。

  • そしてパウロは単にユダヤ律法だけでなく、当時のローマ社会の通念にも共通する事柄を持ち出して話し始める。

  • 「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。……ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています」と。

  • パウロの時代、ユダヤ教の律法でも、ローマ人の社会通念でも、結婚は一つの契約関係と捉えられた。ただし、その契約関係は対等ではなかった。当時の家父長制的・男性中心主義的社会では、妻は夫の「財産」とみなされた。

  • 古代社会における結婚とは、妻がその男性のものとなる、「所有される」ことを意味するものだった。だから、離婚に関する律法の規定には、男性が女性を離縁する場合のことは述べられていても、女性から男性を離縁する場合については述べられていなかった。

  • 「妻は夫が死ねば、自分を夫に結びつけていた律法から解放されるのです」というパウロの物言いはある意味そのことを生々しく表現している。夫が生存中、その妻はまさに律法によって夫に「結ばれて」、つまり「縛られて」いた。

  • パウロが言うように、夫の生存中にその妻が他の男と一緒になれば姦通の女として処刑されたが、聖書には、反対に男性の方が罪に問われる場面は出てこない(男性が姦淫の罪で罰されている場面は出てこない)。当時の社会ではあくまで女性ばかりがその責任を負わされ、圧倒的に弱者だった。

  • しかしそれが当時は当然のことと受け止められ、温存されていた。律法だったりローマ法だったりがそういう通念で規定していて、多くの、特に男は、都合よくその通念を受け入れていた。

イエスと離婚

  • しかし結婚に関連して、マタイ福音書ではイエスがファリサイ派の人々と離縁について論争した場面が現れる(マタイ19章)。ファリサイ派の人々は「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか」と問いかけ、ある場合には「モーセが離縁状を渡して離縁するよう命じていた」と言った。

  • ところがイエスは、「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女にお造りになった。」「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結び合わされ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。したがって、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と言う。

  • このイエスの言葉は、よく離婚自体の禁止を言うものだと解釈されがちだが、むしろ、結局女性を「財産」「所有物」とみなす当時の社会を批判するもの。

  • 続く「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」というイエスの言葉は、おそらく当時の男性たちに衝撃を与えるものだった。姦通の罪に問われるのは女性ばかりで、男性側に問われることはほとんどなかったから。

  • イエス自身は結婚についてあまり肯定的でなかったことが伺える。ヨハネ福音書でイエスが最初に奇跡を行った「水をぶどう酒に変える」場面は婚礼の場でのことだったが、イエスは終始不機嫌で、母マリアにもぶっきらぼうだった。

  • またある時「もし結婚する度に、夫に次々と死なれてしまった女性は、終わりの日に復活したら、どの夫の妻となるのか?」というサドカイ派の問いかけに、「死者の中から復活するときは、娶ることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と、死後の婚姻関係自体を否定するようなことを言っていた。

  • その女性が「誰のものか」と、あくまで女性が所有物としてしか気にされていないことに対して、イエスは何者にも所有されず、縛られない復活後の解放を説いていた。

  • ある意味、律法を教科書のようにして生きてきた人たちにとって、イエスの言うことはかなりショックだったのではないか。今まで良しとしてきた自分の生き方が崩される、価値観が一新される、ある意味、一度死んで新しくされるようなことだった。

今まで良しとしてきたものが終わる

  • パウロは、そんなイエスがわたしたちのもとに来られたことで、自分たちが律法を教科書のようにして生きるあり方は、もう終わったのだと言っている。

  • 「夫が死ねば、(妻は)自分を夫に結びつけていた律法から解放されるのです」というのは、今まで律法という価値観を教科書にして生きてきた自分が死ぬということ。

  • このたとえは、以前弟子たちにイエスが話した「新しいぶどう酒と革袋」のたとえに通じるものがある。ある時、「ヨハネの弟子たちやファリサイ派は断食しているのに、なぜあなたたちの弟子たちは断食しないのか」と問われた時、イエスはこのたとえを返した。

  • 「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすればぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋にいれるものだ」(マルコ2:22)と。

  • 人々は、これまで大事にしてきた、当然としてきた教えや価値観の範疇で、新しく来られた救い主を捉えようとしても、なかなか受け入れることはできなかった。

  • 「女性が男性の所有となる」意味を持つ結婚は、当時の人々がそれまで大事に温存してきた価値観だったが、既に聞いたように、イエスはそんな今までの価値観をガラガラと崩す話を繰り返し語っていた。

  • パウロはそのことに掛けて、結婚している女性が夫の死によって、今まで夫の所有となっていた事実が終わるように、イエスが来られたことで律法はその役目を終え、キリスト者は律法に結ばれた(縛られた)存在ではなくなっているのだと言う。

  • パウロは、自分たちが「肉に従って生きている間」、つまり自分たちが「自然に」よしとしてきた生き方においては、「罪へ誘う欲情」が律法によって自分たちの五体の内に働いていたという。

  • 現代のわたしたちが自然に良しとしてきた生き方とは何だろうか。「こうあるべき」「こういうものだ」と無批判に受け入れてきたものはたくさんあり、多くの問題を温存させてきた。

  • 家族とはこうあるべき、男とは/女とはこういうもの、あの国の人たちはだいたいみんなこういう人たちだ、これが正解だ……

  • 今の時代、「多様性」ということがキーワードになって、こういう何かを規定するような教科書的な物言いは、全体を一つにまとめあげる力を持たなくなっているかもしれない。

  • しかし、逆に自分が良しとしてきたもの、良しとしたいものを守ろうとして、同じ価値観・考え方の者同士で固まり合い、たくさんの「教科書」が出来て、それに支配されて生きる「分断」がいたるところで起こっていないか。

  • イエス・キリストは「こういうもの」「こうあらねば」というわたしたちの「当たり前」を意に介さず、救い主なのに十字架にかかって死なれ、三日後に復活された。この救い主がわたしたちを問答無用で招き、「神の子」としてくださった。

  • イエスを信じて生きるということは、わたしたちの「こういうもの」「こうあらねば」という教科書を閉じて、今までよしとしてきたものをもう一度捉え直して生きること。

  • むしろ教科書通りに生きられない自分、「こうあらねば」と律法的に思いながら、自分にはできそうもない事柄や、なれそうもない生き方に打ちひしがれていた自分が、イエス・キリストに結ばれ、聖霊が共にいることでいつの間にか変わっていく、変えられていくということではないか。

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