聖書:箴言9:1-11/1コリント11:23-29
宣教:「同じ釜の飯を食う」
賛美:2,77,29
聖餐式の時
今日朗読されたコリントの信徒への手紙の箇所の前半は、聖餐式の時わたしたちが聞く言葉。この教会では月一回、パンを食べ、ぶどうジュースを飲むささやかな食事の儀式である聖餐式を行っている。その時最初に読み上げられるのが今日の箇所。
「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」もう皆さん何度も聞いておられる言葉。
パウロが手紙で書いたこの言葉には続きがあった。聞くとわたしたちがドキッとする言葉、「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。」
「ふさわしさ」という言葉に、ドキッとしたり居心地悪くなる人は少なくない。
時々、聖餐に関してここでパウロが言う「ふさわしさ」という言葉を、洗礼を受けていることだと誤解されることがある。
しかし、パウロ自身はここで洗礼の有無を問うているわけではなかった。そもそも初期キリスト教会での聖餐では、ユダヤ人が日常的に行ってきた宗教的な食事と、厳密に区別されていなかった。
もしかするとそこには、まだ洗礼を受けていない人だって一緒に食事をしていたかもしれない。
福音書や使徒言行録によく出てくる「パンを裂いて感謝の祈りを唱える」という聖餐の光景は、実は当時のユダヤ人の食事の光景と変わりなかった。
ユダヤ人は普段から、食事の始まりにその家の家長がパンを裂いて同じ食卓につく人々に渡していくことで食事が始まり、食事の終わり、今度はぶどう酒を持って感謝の祈りをささげ、同じようにしてみんなで回し飲んでいた。
イエスは、聖餐という新しいことを始めさせたわけではなかった。今まで行われてきた食事の際に、これからはご自分の死と復活を思い起こすよう言われたのだった。
聖餐を受ける「ふさわしさ」とは
すると、パウロが言うこの聖餐への「ふさわしさ」とは何なのか?洗礼のことでないとすれば、いったい何のことを言っているのか?
自分自身に、救い主の死と復活を飲み込む食事へのふさわしさを問い始めたら、この食事に与ることに躊躇が出てくるのではないか。「今のわたしは、このパンとぶどうジュースを受けるにふさわしいのだろうか?」と考え出したら危険かもしれない。
おそらく「ふさわしさ」ということを言われた時、わたしたちは神に値踏みされるようなイメージを持ってしまうのではないか。
聖餐の食事に与ることを、わたしたちはどこか受け身の行為として捉えているのかもしれない。鈴蘭台教会では配餐者が座っている皆さんのところにパンとぶどうジュースを持って回ってくるのでよけいに。
しかしパウロは違った。パウロにとって、聖餐に与ることは受け身ではなく積極的で、ある意味主体的な行為だった。彼は聖餐を「主の死を告げ知らせる」ことだと言った。これ自体がこの世界に対して証しする行為だと。
だからここで問われる「ふさわしさ」とは、「あなたたちはこの世界に証ししていますか?」という意味。「聖餐を受けることによって、あなたは主の死を告げ知らせていますか?」
パウロは「復活」ではなく、あえて主の「死を告げ知らせる」と言う。わざわざそちらを強調した。
主の死を告げ知らせる
聖餐によって「主の死を告げ知らせる」わたしたちは、イエス・キリストの死がどういうものだったかを思い起こし、イエスが十字架にかけられ惨めな姿で死なれたことを、救いの業として飲み込んできた。
それは一方で、わたしたちの古い自分が死ぬことを繰り返すことでもある。どういうことかというと、十字架によって死なれた救い主と向き合うことで、今まで「よし」としていた自分が死に、新しい自分になるよう招かれていることを、聖餐の度に思い出すということ。
聖餐の元々の形は、一つのパンを裂いて分け合う儀式だった。互いに分かち合う「交わり」がなければ出来ないもの。そして、教会の「交わり」というのは、古い自分の死を最も味わうところでもある。
どんな集団においてもそうだと言えるかもしれないが、ここに集まるわたしたちは、互いに受け入れることが厄介な相手と出会う。
今年から、日曜と水曜に開いているオープンチャーチに、地域の子どもたちがよく集まってくるようになったが、こちらも慣れてくるとだんだん、誰と誰が仲が良くて、誰と誰は若干折り合いが悪いというのが垣間見えてくる。
「水曜日、〇〇くん来るのかぁ」と、不服そうに呟いているのをちらっと聞くこともある。そんな事言いながら、来たら来たでケロッと一緒に遊んでいたりするのだが、そんなふうに時々、子どもらの間で「ここで会いたくないなぁ」という気持ちが見え隠れする。
そんな様子を見ていて、わたしは実は、「これぞ教会だなぁ」としみじみ思う。神様は、わたしたちが自分では誘ったり招いたりしようと思わない相手を、ここに招いてしまう方なのだと思うから。
子どもたちだけではない。わたしたちにとって、神はそういう方だし教会とはそういうところ。ここにはわたしにとって、あなたにとって、厄介な人が来る。あなたではなく神がその人を招いてしまう。一緒に食事の席に、聖餐に招いてしまう。あなたが、わたしが、通常なら一緒に食事しようとは思わない人と、共に食卓に着くことになる。
その時、わたしたちは古い自分を打ち砕かれる。わたし自身をここに招いてくださった神は、あの人もここに招く方なのだと知って。
わたしが聖餐式でパンとぶどうジュースを口に含む直前、皆さんに「どうぞ顔をお上げください」と言うのは、単にわたしと目を合わせてもらいたいのではない。どんな人がこの食卓に招かれているのか、改めて受け止めてほしいから。
互いを受け入れ合うことというのは、わたしを招いてくださる神が、あの人もこの人も招いておられることを知って、初めて始まるのではないかと思う。
それは古い自分に衝撃を与えることかもしれない。十字架にかかって惨めに死んだ方が、神がわたしたちに送られた救い主であり、復活させられた方なのだと受け入れる衝撃と同じように、わたしたちを貫くかもしれない。
最初から一人で「ふさわしい」人などいない
聖餐の制定の言葉として語られた今日のパウロの言葉には、この前にコリント教会の人たちに対するパウロの辛辣なコメントがある。
「わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。…あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。…それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だから。」
裕福な者と貧しい者、互いに争い合っている者、何となく一緒にいるのが難しい人同士が集まるコリントの教会で、彼らは自分の食事を分け合うことなく我先に食べていた。
考えの違う相手によって、立場の違う相手との交わりによって、自分自身が変わっていくこと、古い自分が打ち砕かれることを、彼らは良しとしなかった。それは、古い自分が古い自分のままでいることだった。
今日のコリント書の最後のところで、パウロは言っている。「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」パウロがわきまえるよう言う「主の体」とはなんだろうか。
教会生活が長い方は、「主の体」と聞くと、それが新約の他の手紙でも頻繁に出てくる「教会」の言い換えであることを思い出すのではないか。「主の体」とは、一人ひとりが違う役割を与えられた共同体、一人ひとりが神に必要とされる「教会」という「交わり」のこと。
「ふさわしくないままで」聖餐を受けることに警告するパウロだが、注意してほしいのは「“あなた”“個人”のふさわしさ」ではなく「“あなたたち”“交わり”のふさわしさ」を問うていること。
イエス・キリストの死を記念する聖餐に与る者の「ふさわしさ」とは、個々人の「人と成り」だとか「資質」とか「良い人か悪い人か」といったことではない。「ふさわしくないわたし」と「ふさわしくないあなた」が共にこの食卓に招かれていることを、体現しているかが問われている。
今、世の中はネットやSNSの発展によって良い意味でも悪い意味でも同じ思い、同じ意見を持つ人同士が固まりやすくなり、一方で分断が加速している。
世界はどんどん排他的、攻撃的になっている。ロシア・ウクライナの戦争、イスラエル・パレスチナの戦争は終わる様子を見せず、各国が軍備増強、互いへの煽り合いに力を入れ、一触即発の状況が作られ用意されるかのように進んでいるように見える。
こういう状況の中で、わたしたち礼拝出席が30人規模の教会の交わりに、出来ることなどないように思うかもしれない。
しかし、パウロの手紙によれば、わたしたち教会の働きというのは、世の中を引っ張っていくことではなくて、「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」ということ。
本来神の前にふさわしくない弱さを、限界を、偏りを、考えを、背景を、価値観を持つわたしたちが、ふさわしくない者同士共に集まり、救い主の死による神の業を記念することで、こんなわたしたちが同じ釜の飯を食べ続けていることで、神は決して、この世界を諦めているわけではないことを証しし続ける。
来週わたしたちは聖餐式を執り行う。わたしたちは個人ではなく共同体として、聖なる食事の儀式に与る。ぜひ顔を上げ、顔を見合わせて、ここには神によって招かれた様々な人が共にいることを意識して、この食事に与る時を持ちたいと願っている。