聖書:列王上17:8-16/ローマ14:10-23
宣教:「理解し合えないところから」
賛美:472,416,29
同じ信仰を持っている?
今日最初に読み上げられた列王記の物語は、預言者エリヤがシドンのサレプタという地に遣わされるところから始まっていた。
「シドン」「サレプタ」は、イスラエルの北方、地中海に面した位置にある、イスラエルの人々から見れば異邦の地だった。
異邦の地ということは単に外国であるということだけでなく、自分たちが信じる神とは違う神々を信じる人たちの場所ということ。通常イスラエル人は付き合いを避ける人たちの場所。
この頃、イスラエルの神は世界中に雨を降らせず、各地で飢饉が起こっていた。人々が困窮する中、神は預言者エリヤをイスラエルではなく、なぜか異邦の地シドンのサレプタに行かせる。
エリヤはそこで、一人のやもめに頼らざるを得なくなる。やもめとは、夫と死別した女性だが、彼女は遺された息子と慎ましく暮らしており、この飢饉の中、家にある一握りの小麦粉を消費すれば、あとは息子ともども餓死を待つ身だった。
エリヤは、飢饉の中しばらく厄介になるには最も適さない、社会的にも経済的にも弱くされた家庭に、支えてもらうようお願いすることになる。
神に導かれて異邦の地シドンのサレプタに入り、薪を拾っている彼女と出会うと、エリヤは早速語りかける。自分のために一杯の水と、残り僅かな小麦粉で作ったパンを用意してほしいと。
初対面で、かつどう考えても生活に余裕のないやもめに、なんとも図々しい要求をする。エリヤは、自分を養ってほしい。そうすれば、自分の信じる神があなたの家の壺の小麦粉を尽きさせないし、瓶の油も無くならないと言う。
同じ信仰を持つイスラエル人相手なら、まだ通る主張だったかもしれない。しかし相手は違う神を信じる異邦人。本来なら、この切羽詰まった状況で何自分本位なことを言っているのだと相手にされない話だった。
ところが、サレプタのやもめはエリヤの申し出を受け入れる。開口一番「あなたの神、主は生きておられます」と応える。「主」というのはヘブライ語では「ヤハウェ」というイスラエルの神を指す固有名詞。彼女は異邦人であるエリヤの信仰を疎外しなかった。
やもめは、エリヤの言うことを信じたのか、それともどうせ死ぬならせめてこの瞬間は目の前の人を満たしてあげようと思ったのか、エリヤの言う通りにする。すると、神がエリヤを通して告げた通り、彼女の家の壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。
この話はどう捉えたらいいのか。イスラエル人だけでなく異邦人にも救いをもたらす神の太っ腹さを称える話なのか?そんな博愛的な話ではない。むしろ神はイスラエルにはエリヤを遣わさなかった。
この話は、飢饉という全く余裕のない状況の中、「生まれ育った地」も「宗教」も「価値観」も違う二人の人が、互いの状況や信仰を聞いてその違いを十分認識しながらも、それでも、お互いのいのちを尊重して一緒にいようとした話。
エリヤは、以前わたしたちがヨナの物語で読んだように、異邦人に働きかけること、あろうことか異邦人に養ってもらうことについて、神に言われた時、最初、良い印象は持たなかったのではないか。
サレプタのやもめは、異邦人である自分の背景や困窮状況を意に介さないエリヤの要求に、最初、とんでもないと思ったのではないか。
しかし一方でこの二人は、背景も宗教も価値観も違うお互いへの想像力を働かせる。やもめはエリヤの信じる神に思いを馳せ、エリヤはやもめの困窮状況に思いを寄せる。そして、二人して互いのために出来る小さな決断をする。それは一緒に生活することだった。
それはエリヤとやもめと、やもめの息子の命をつないだ。
もし今、同じような小さな決断が出来たなら、わたしたちの世界は命をつなげることになる。
ロシアの人とウクライナの人が、イスラエルの人とパレスチナの人が、日本の人と中国の人が、歴史も宗教も価値観も違う互いが必死に大切にしているもの、必要としていることを思い、互いの生に想像力を働かせるなら、きっと壺の粉が尽きることはない。
しかしそれが出来ずにいるのが今のわたしたちの実情。
当時、ユダヤ人と異邦人が混在する教会で起きていたこと
教会という交わりにおいてこそむしろ、わたしたちは絶えずこのジレンマに陥る。
神は、エリヤをイスラエルではなくシドンのサレプタに遣わし、本来相容れないやもめに身をあずけさせたように、考え方も価値観も違う人同士を教会に招くことをやめないから。
初期キリスト教会において、教会は絶えずこの問題に頭を悩ませていた。今日朗読されたローマの信徒への手紙が宛てられたローマの教会は、エルサレム教会のようにほとんどユダヤ人だけの教会や、ガラテヤの教会のようにほとんど異邦人だけの教会と違って、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が混在していた。
背景、考え方、価値観が著しく違う人々が一緒に神を信仰し、礼拝していた。
ユダヤ人キリスト者は、かつてモーセの時代に神から与えられた掟、律法を守ることは、神の民として当然のことだった。律法の規定には食べてよいものと食べてはならないものについての食物規定や、割礼、祭日の規定、安息日の掟などがあった。
イエス・キリストを救い主として信じるようになってからも、彼らはその掟を大事にし続けた。当時キリスト教はまだユダヤ教の一派だった。
一方異邦人キリスト者は、そのような背景を持たなかった。彼らがイエスを救い主として信じて、神の民となるなら、ユダヤ人と同じように律法を守らねばならないと考える者も少なくなかった。
ずっと、神から与えられたものとして律法を守ることを大切にしてきた人たちからすれば、律法の規定を蔑ろにするのはとんでもないことのように映った。
ただ、同じユダヤ人キリスト者でもパウロは違った。パウロは、自分たちは律法を守ることによって「神の民」であるのではなく、信じることによってのみ、「神の民」とされるのだと教えていた。
また、律法に限らず、特別な祭日を守ることによってだったり、肉を食べず野菜だけ食べるという禁欲によって、神の民であろうとする人たちにも、それではイエス・キリストの十字架と復活による救いを何も受け入れていないのと同じだと説いた。
以前、ほとんど異邦人で構成されたガラテヤの諸教会へ手紙を書いた時、パウロは、ユダヤ教の巡回教師に影響されて、わざわざユダヤ教の割礼や食物規定を律儀に守ろうとする異邦人信徒たちに、半ば呆れ気味に怒っていた。イエスの十字架は無駄だったのかと。
また、ある異邦人キリスト者の教会に滞在していたペトロが、それまで異邦人信徒たちと毎日食事していたのに、他のユダヤ人たちが訪ねてきた時、異邦人と接触することを禁じた律法を気にしてか異邦人と同じ食卓で食事するのをやめてしまうと、パウロは「昨日まで律法にとらわれずにいたではないか」と詰め寄っていた。
パウロにとって、律法を守ることが神の民であることの条件であるような考え方は、イエス・キリストの救いを否定するものだったから。
パウロの心変わり
ところがローマの信徒への手紙では、パウロの言うことが変わる。彼は「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません」と言う。
少し乱暴に言うと、前は「割礼だったり、食物規定だったり、律法を守ることに固執するとは何事か」と言っていたのに、今度は「あなたが律法で食べてはならないとされている食物を食べるのを見て、躓く人がいるなら、それはよしなさい」と言っている。
かつて言ったことと矛盾しているように聞こえる。これは、一つにはユダヤ人ばかりのエルサレム教会や、異邦人ばかりのガラテヤ教会とは、ローマの教会の事情が違ったから。
先に言ったように、そこには異邦人信徒とユダヤ人信徒の両方が混在していた。宗教的文化、大切にしている風習、価値観が共通している人たちではなく違う人たちが共に礼拝していた。
パウロはユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者に律法を遵守させようとすることや、異邦人キリスト者がわざわざ律法を守って救われようとすることには反対していたが、ユダヤ人信徒が律法を大切にし続けること自体を否定したわけではなかった。
事実パウロ自身は使徒言行録で決められた日に神殿に参拝したり、律法を遵守し続けている。
ところが、ローマの教会では、ユダヤ人信徒と異邦人信徒との間で、あるいはユダヤ人信徒同士、異邦人信徒同士の間で、食べ物のことで互いを裁き合う事態が起きていた。
それぞれが同じ神への信仰を持ち、イエス・キリストへの信仰を大事にしようと真剣に臨んでいるのだけれど、その真剣さ・熱心さによって互いに躓きとなっていた。
そんな状況を聞いて、パウロは以前言っていたことと違うことを言うようになる。乱暴に言えば「律法なんて気にするな」とガラテヤの諸教会に書き送っていたパウロは、ローマの信徒への手紙で、「律法を守る人たちに配慮してほしい」と書いている。
ガラテヤの教会へ手紙を書いていた時には見えていなかった人々の状況が見えるようになって、パウロはまた考え方が少し変わった。
それで深刻に傷つく人がいるのを知った。そこには自分とは違う信仰の持ち方をしている人たちが、それでも自分と同じように神を真剣に追い求めているのだという気づきがあったのではないか。
裁くのではなく、互いへの想像力を働かせるということ
以前、X(旧Twitter)にこんな投稿があった。「多様性というのは、『互いに理解し合いましょう』と言うことでは実現しない。『互いに理解し合うのは無理だけど、それでも相手を尊重しよう』ということで初めて実現する。」
教会という交わりは、初期の頃からその内部において互いに理解し合うことに苦労する交わりだった。現在これだけ様々な教派・教会に分裂しているのは、結局分かり合えなかったということの現れとも言えるかもしれない。
しかし逆に言えば、同じ神、同じ救い主を信じようとしながら、神について、救いについて、宣教について、簡単には相容れない考え方、思い、背景を持つ人同士を、神は教会に招き続け、引き合わせ続けてこられた。
それが意味するのは、違う考え、違う価値観、違う思いを持つ者同士が、それでも一緒になって神を礼拝し、共に支え合い、一緒に宣教を考え進めていくことができると、神ご自身が信じているということではないか。
鈴蘭台教会にも、神は、一見相容れない思いを持つ人たちを招き続けてきた。わたしたちは、雨の日にぬかるんでしまう駐車場をアスファルトで覆うか、教会には自然が見えた方がいいから土が見える部分を残すかで、なかなか折り合えなかった。
洗礼を受けていない人も共にパンとぶどうジュースに与る聖餐式を巡って、過去には教会を去った人もいた。
教会バザーをどうするかを巡って、これまで何を目的として何を大事にして続けてきたかをなおざりにしたくない思いと、以前出来ていたことが出来なくなっている現状の中、今自分たちが出来る形、続けられる形を模索しなければという思いがぶつかり合う。
教会の業、自分たちが大事にすべきこと、自分たちに出来ることを真剣に、自分事として考えているからこそ、わたしたちは違う思い、違う考えに想像力を働かせることが難しくなる。
教会とは、実はこのようなジレンマと向き合い続けるところ。
わたしたちはわかりやすくどちらか正しく、どちらが間違っているか、裁きというか決着がつけばいいのにと思うかもしれない。
しかし今日のローマの信徒への手紙でパウロは、かつてガラテヤの教会に手紙を書いた時のようには、「こちらが正しい」と言わなかった。互いの思いや信仰を裁き合うのではなく、「あなたは『自分の持つ信仰』を、神の前で持ち続けなさい」とユダヤ人信徒にも異邦人信徒にも、「全員に」言った。
そしてパウロは、互いの信仰を「躓かせようとしないように」言う。相手のことを理解、納得までは出来なくても、何を大事にしているかに、そしてそこに真剣な思いがあることに、少しでも想像力を働かせることを促している。
最初に聞いた、エリヤとサレプタのやもめの物語は、彼/彼女が、互いの大事にしているであろうこと、真剣さ、状況の深刻さを、おそらくは互いの言葉の足りなさに対して想像力を働かせながら、理解しきれなくても受け止め合い、自分たちと一人の子どもの命をつないだ話。
ここにはユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が共に教会を形作る原型があったし、互いへの想像力を働かせることの難しさを抱える今の教会に、希望を与えてくれる。
論破や、主張を通すこと、言い負かすことに重きが置かれがちな世の中で、わたしたち教会は、和解のしるしとしての交わりを証し出来るだろうか。