聖書:イザヤ43:1−13/使徒27:33-44
宣教:「まさかみんな助かるなんて」
賛美:469,528,29
遭難し難破する時
パウロは、エルサレムで捕らえられ、裁判にかけられ、上訴した結果ローマで裁判を受けるため、他の囚人と共に船で護送されていたが、その途中暴風に襲われてしまう。
船は遭難してしまい、何日も暴風雨吹きすさぶ海の中を漂った。乗組員たちには助かる望みなど消え失せていた。
パウロの生涯におけるこの場面は、端から見て失敗の連続に見える。まさに人生において遭難し、最終的に座礁してしまう場面に見える。
宣教活動はいつも順風満帆というわけにはいかなかった。最初、イエス・キリストの話をして人々の心を掴んでも、必ずどこかで反感を買い、拒否反応を受け、ひどい時には命を狙われた。
ローマ当局に拘束され、他の囚人たちと共に自由のきかない身、拘束された状態に陥っている。それのみならず、嵐吹く大海原にもみくちゃにされている。
パウロの周りを、あまりにも大きな力が動き続けている。最高法院を動かす力のある一部のユダヤ人たちによる宣教の妨害、身柄の高速、ローマ帝国による軟禁・勾留・移送、そして276人を収容する大きな船もいとも簡単に破壊する大自然の脅威。
「これはもう自分にはどうしようもない」という、大きな力や流れの前になすすべなく流されていく感覚を持つことはおありだろうか。
もしかすると先週日曜日に行われた東京都知事選挙で、そういう感覚を持った人もあるかもしれない。ロシア・ウクライナの戦争、イスラエル・ガザの戦争、ミャンマーでの軍による人権侵害が続く中で、そのような感覚に打ちひしがれているかもしれない。
ある人は、たまたま日々の生活の中で関わる人が困っていて、なんとかしたいと願いながらも、根本的な解決には行政が、社会が、世の中の仕組みが変わらないといけないことがわかって、一個人にはどうしようもない大きな壁が立ちはだかっているような感覚になることがあるかもしれない。
わたしたちはそういう、遭難して大きな波に揉まれるしかないような、なすすべなく海の藻屑となるしかないような、空虚な「諦め」を抱く時がある。
今日のパウロは、現実を見れば宣教活動が失敗し、大衆の悪意や国家権力を前に振り回されている最中、今度は荒れ狂う大波という、一個人にはどうしようもない、どうにかできそうになどない大きな力にもみくちゃにされていた。
船員たちは皆、生きることを諦めていた。食事は喉を通らなかった。
空気を読まない信頼
ところが、そんな中一人「さあ食べよう」とパンを裂き始めるバカがいた。
一同の前でパンを取り、感謝の祈りをささげてこれを裂き、食べ始めるというこの場面は、明らかに聖餐式をイメージさせるもの。単なる宗教的儀式ではなく、文字通り力を得るための糧、食事としての聖餐式。
それは船員たちが「生きることを取り戻した」瞬間だった。十四日もの間、不安の内に全く何も食べずに過ごしてきた彼らが、渡されたパンを食べ始めた。神が助けてくれることを疑うことなく食事しようとするパウロの姿に、ある意味釣られたのかもしれない。
誰かが無邪気に信じている姿は、時に信じていない人が思わず信じてみてしまう力を持つ。
共に、顔と顔を見合わせ、食事する
わたしたちが共に聖餐に与る意味はここにある。神が「今、ここに」おられることを実感するには、わたしたち一人ひとりの信仰は心もとないかもしれない。でも、心もとない信仰者が寄り集まって、顔と顔を見合わせ、裂かれたパンを食べる時、信じられないことを信じる力を取り戻すのかもしれない。
イエスが「わたしの体、わたしの血」と言われたパンとぶどうジュースを、文字通り「噛んで」「飲み込む」ことで、“神の救い”という捉えがたいものを味わい、飲み込もうとする。そしてそれを種々雑多な人たちと共に、顔を見合わせながら行う。
嵐によって船が流される中、パウロが裂くパンを食べ始めた船員たち、囚人たちも、きっと互いに顔を見合わせながら、無邪気に我々は助かると説くパウロに「こいつ本当に信じているのか?この状況で?」「なぜそんな無邪気に神の救いを信じられるんだ」と戸惑いながら飲み込んだ。
そして、一緒に食べるという行為は、実際彼らに力を与えた。次の日、浅瀬に座礁し、難破した船から全員が泳ぎ切って陸地に上がるには、この食事が必要不可欠だった。
ありえないことが起こる時
今日のこの物語は、パウロの宣教活動の失敗、一部のユダヤ人介入による妨害、ローマ当局による介入、人生においてという意味だけでなく文字通りの遭難と難破、という悪いことをかき集めた結果のフルコースとなっている。
ところが、船は座礁し、これだけパウロたちはボロボロになりながら、最後にとんでもない事実がサラッと報告される。「このようにして、全員が無事に上陸した」と。
276人全員が。途中、自分たちだけ助かろうと船から逃げ出そうとした船員たちがいたり、船の難破に乗じて囚人たちが泳いで逃げないよう殺そうと図る兵士たちがいたりと、嵐だけではない様々な危険があったにもかかわらず、276人全員が助かった。
パウロが無邪気に信じた神の救いは、たしかにあった。
牧師がこんなことを言うと元も子もないが、これはもしかすると、「単なる偶然」で片付けられる話かもしれない。たまたま彼らの一挙一投足が助かる方向へ転んだだけなのかもしれない。神は絶対救い出してくれるというパウロの思い込みが、たまたま全員の帰還という現実と重なっただけなのかもしれない。
それでも一つ言えるのは、この現実と重なったのは、彼らがパウロの信じることに身を預けてみたからだったということ。現実を受け入れ、生きることを諦めるのではなく、神という自分たちの理解を超えた存在が、もしかして救ってくれるかも知れないという信頼に、一晩でも一瞬でも身を置いた結果、まさかの全員が助かった。
「ありえないことが起こるかもしれない」という信頼、神への信仰は、きっと一人で培えるようなものではないのだろう。だからこそパウロは皆にパンを裂き分け与えたし、途中逃げ出そうとする船員たちを「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」とパウロが留めさせたのではないか。
わたしたちが教会に集まるのは、オンラインを通して心を合わせるのは、実は、神を信じるお互いの姿が、お互いにとって必要だから。
今時代は嵐が吹きすさぶ荒波のような様相を呈しているかもしれない。ネット、SNSを通して、負の感情や悪意、フェイクニュースが大きな波となって、時に抗いがたい力となって襲いかかるようになった。
そんな時代を生き抜いていくのに、わたしたちは自分で思う以上に疲れ果てているのかもしれない。いろいろなことをいつの間にか諦めてしまい、生きる力を失っているかもしれない。
聖餐において顔と顔を見合わせ、パンを食べ、ぶどうジュースを共に飲む時、わたしたちは、その生きる力を取り戻す。諦めてしまっていることを成し遂げる方が「今ここに」おられることを思い出す。
そのことを信頼するのに、一人では心もとなくても、神によって導かれ立てられた教会、見えない交わりは、信頼する力をわたしたちに取り戻させる。そのような共同体として、共に信仰を告白し、賛美を歌い、祈りを合わせ、食卓を共にしていきたい。