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執筆者の写真鈴蘭台教会 日本基督教団

2024/07/07(日) 聖霊降臨節第8主日礼拝 宣教要旨

聖書:ミカ7:14−20/使徒24:10−20

宣教:「いつか復活させられる」

賛美:323,81,29


救い主に対する拒否反応

  • 今日の箇所は、パウロが各地でイエス・キリストを宣べ伝えているのを面白く思わなかった一部のユダヤ人が、パウロを逮捕した後の話。

  • パウロが宣教旅行をしてエルサレムに帰ってきた時、彼は神殿で逮捕された。

  • エルサレムに戻ってくる前、パウロは行く先々で一部のユダヤ人たちから怒りを買い、町を追い出されるか、命を狙われて逃亡するということを繰り返していた。

  • それだけユダヤ人の間に拒否反応を引き起こしたのは、パウロがイエス・キリストを救い主として宣べ伝えたから。

  • ユダヤ人を扇動し、国家反逆を企てたと訴えられたイエス、ローマ帝国によってエルサレムで処刑され死んだイエスのことを、“この方は本当に神の子で、救い主で、復活されて天に上げられた”と説いた。

  • 自分たちが大切にする伝統の教えとは違うことを言うイエスが邪魔だった人たち、あるいは政治的指導者としてイエスに期待していたのに、思っていたような方ではなかったという落胆が怒りに変わった人たち、イエスを処刑しようとする大衆の意志に抵抗できなかった人たちによって、イエスは殺された。

  • パウロはそのことをオブラートに包むことなく世界中のユダヤ人の間で語り、あなたたちがそのようにして命を奪った方こそ、本当のメシアだったのだと歯に衣着せぬ説教をした。そしてそれが、至るところで戸惑いと怒りを引き起こした。

復活のイエスは向き合いたくない自分と向き合わせる

  • 今日、わたしたちは理不尽な裁判にかけられるパウロに同情するのではなく、むしろパウロが伝えることに拒否反応を示したユダヤ人たちに自分の身を置いてみたい。

  • イエスを救い主として信じるということは、わたしたちのいろんな部分に「戸惑い」と「怒り」にも似たショックが生じるということではないのか。

  • あなたはどういう人間かということを、オブラートに包まれることなく突きつけられるのは、あまり受けたくない経験なのではないか。

  • 時々自分の状況に、聖書の物語が重なって居心地が悪くなる時がある。

  • 学生の時、小林の駅近くに住んでいたが、飲み屋が立ち並ぶ近隣には、夜酩酊してフラフラになっている人がよく座り込んだりしていた。

  • ある時、深夜に散歩していたら一人のおじさんが自動販売機の前に横たわっていた。明らかに泥酔しており、立ったとしても歩くのもやっとな状況なのは見てわかった。明日試験だというのにこんな深夜にトラブルに巻き込まれるのは御免だった。わたしはおじさんに近づく前に迂回して別の道を通って家に急いだ。

  • その時、頭の中に不都合な場面が浮かんできた。律法学者に「良きサマリア人のたとえ」を話すイエスの場面だった。その時わたしは牧師になって教会で働こうとしている神学部の学生。

  • 荒野で強盗に遭い、重傷を負って倒れるユダヤ人を遠くに見て、迂回して通り過ぎていった祭司やレビ人に、自分が重なった。良いサマリア人ではないのは明らかだった。

  • 頭の中には言い訳がたくさん出てくる。明日は大事な試験だし、今は夜も遅い。周りに人通りも少ない。万一このおじさんとトラブルになっても助けてくれる人はいない。おじさんは自業自得だ。身の安全を考えればこの判断は致し方ない…。

  • おそらく、傷つく人を遠くに見て迂回した祭司とレビ人も、必死に自分に言い聞かせたのと一緒だった。“神殿に務める自分が怪我人に触れれば、律法の規定で汚れてしまい、職務を全うできなくなる。”“あそこに人が身ぐるみ剥がされて倒れているということは、助けようとした人を襲おうとする強盗の罠かもしれない”

  • そこまで想像した時、わたしはイライラした。明日試験でナイーブになっているのになんで今こんなことで悩まなければいけないんだと。そして一時的にイエスを頭から閉め出そうとした。

  • そしてはたと気づく。これがイエスを十字架につけた人々の心理だったのではないかと。わたしはしばらく立ち止まって迷ったあげく、先程迂回した道の方へ引き返した。

  • しかし自動販売機の前に、もう先程のおじさんはいなくなっていた。後味が悪い。自分がどういう人間かということが浮き彫りにされた気分だった。

  • パウロから、自分たちが十字架につけたイエス・キリストを宣べ伝えられる時、ユダヤ人たちはそういう後味の悪さを覚えたのではないか。そういう自分自身の姿を突きつけられることは、不快にも感じたはず。

復活の主との出会いが“わたし自身”と向き合わせる

  • ただ、本当はパウロは、人々に罪人の意識を持たせて嫌な思いをさせようとしているわけではなかった。パウロ自身、イエス・キリストとの出会いが、向き合いたくない自分と向き合うことになるショックをもたらすものだと、さんざんわかっていた。彼は元々イエスを宣べ伝える者たちを迫害し、投獄し、ある者の処刑にさえ関わった人だった。

  • それが間違っていたこと、正しいと思って何の痛みも感じずに信仰を持つ人々を攻撃していたことを受け入れるのは、困難だったはず。

  • 逆に言えば、それを受け入れられたのは、パウロが「復活の主」に出会ったからだった。十字架に磔にされ殺されたはずの救い主が、パウロに迫ってきたからこそ、復活してまた働きかけてくださっているのを信じられたからこそ、パウロは認めたくない自分の姿と向き合うことができたのではないか。

  • だからこそ、総督フェリクスの前に引き出され“エルサレムで人々を扇動し、帝国に混乱をもたらした”と一部のユダヤ人たちから訴えられていることについて弁明する時、パウロは「死者の復活についての信仰」ということを繰り返し語る。

  • 群衆を扇動した、ユダヤ人の間に騒動を引き起こした、という容疑で総督フェリクスの前に引き出されたパウロだが、実際少し前に「群衆が扇動される」場面というのが出てくる。

  • ただし、実はそれをしたのはパウロを捕らえた人たちの方。アジア州からパウロを追いかけてきたユダヤ人の一部が群衆を扇動してパウロを捕らえたのだった(21:17以下)。

  • 本当はパウロはそれを指摘するだけでいいはずだった。「訴えられている事実はありません。エルサレムでのことに限れば、むしろ群衆を扇動したのはわたしを訴えている人たちです」と。

  • ところが、パウロは自分がなぜ人々の怒りを買っているのか、ある意味バカ正直に話してしまう。パウロが「死者の復活のことで」と言うのは、「いつか時が来れば死者は全員復活して裁きを受ける」という他のユダヤ人も信じていたこと以上に、「死者の中から復活されたイエス・キリスト」への信仰を指す。

  • ローマ帝国が死刑を執行した人物、ローマ帝国も危険視し処刑に加担したというのに、その処刑されたイエスについて、「救い主であり、復活された」とパウロは裁判の席で言ってしまう。

  • それは、パウロが申し開きしている裁判官、ローマ総督にとっても容易に受け入れられる話ではなかった。それは帝国側の立場で、本来死刑になるような罪を持たぬ人を、自分たちは処刑したということと向き合わねばならなくなることだったから。

  • もし総督フェリクスがパウロの話を少しでも真剣に考えたなら、頭の中には色々な言い訳が浮かんだかもしれない。“ユダヤ人を統治する側としては、彼らが怒りを向ける者を処刑しないことには、暴動が起きてしまう可能性があった”とか、“結局はユダヤ人の意志を尊重しただけで、責任は彼らにある”とか。

  • あるいはそんな言い訳も浮かばないくらい、話半分にパウロの言う事を聞いていたかもしれない。しかし、何かパウロの話には聞き流していられないものを感じたよう。

復活して働きかけ続ける救い主

  • フェリクスはパウロの処遇について判断を急がず、しばらくある程度の自由を与えながら勾留することにした。

  • 実は数日後には自分の妻となっていたユダヤ人ドルシラと共に、パウロを呼び出し、イエス・キリストへの信仰について聞こうとしている。しかし話を聞く中でパウロは正義や節制や来たるべき裁きについて話しはじめ、フェリクスは恐ろしくなったという。

  • ユダヤ人である妻ドルシラは、実はユダヤの律法に反して前の夫と離婚し、二度目の結婚をフェリクスとしていた。パウロが話す「正義や節制や来たるべき裁き」は、二人にとって直視しづらいものだったのかもしれない。

  • ここでもやはり、イエス・キリストへの信仰は耳に心地よいものなのではなかった。むしろ向き合うことを避けていた自分たちの姿を突きつけられるものだった。語られる神の裁きを恐ろしく思ったというより、自分自身と向き合うこと自体、本当は避けていたいことだったのではないか。

  • 恐ろしくなったフェリクスは話を適当なことで切り上げ、今日はもう帰ってよろしいとパウロを再び監禁する。しかしパウロから金をもらおうとする下心もあって、度々呼び出して話を聞いていたという。

  • 彼自身は実際下心でパウロと会っていたのかもしれない。しかしそうやってパウロから信仰について話を聞き続けたというところに、フェリクス自身の思いを越えた働きがあったのではないか。

  • 救い主イエスが、十字架にて処刑されて終わったのではなく、その後「復活された」ということは何を示すのか。それは救い主としての働きかけを「死」によってやめるなんてことはなかったということ。

  • わたしは、小林に住んでいた時、深夜に泥酔したおじさんを遠くから見つけ、迂回していったあの夜を度々思い出す。結局引き返したらいなくなっていた、無事家に帰っていったのか、たまたま他に誰か通りがかって助け起こされたのか分からないが、何もしなかった自分に後味の悪さを感じたあの夜を、未だに時折思い返してしまう。

  • しかしそれは、わたし自身の中に「復活のイエス」が繰り返し現れ、働きかけ続けてくださっているのだと思わされる。

  • そしてだからこそ、自分たちは単に「罪人」であり続けるのではなく、何かが変えられていくのだと、希望を持てる。救い主は復活し、今もわたしたちに現れ、働きかけ続けることを決してやめられないから。

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