聖書:ホセア14:2-8/使徒9:36-43
宣教:「こんなによくしてくれたのに」
賛美:354,518,29
願いと現実
身近な大切な人のことを想って祈るということが、わたしたちは年々増えてきたかもしれない。「この人の病が治りますように。回復し、元気になり、また一緒に色んなことができますように。」「この人を苦しめている問題が解決しますように。不安が解消されますように。」
そう願うこと、願わずにはいられない状況が、もしかするとちょっとずつ教会の中で増えてきた。あるいは社会の中で増えてきた。
実をいうとわたしは、「病気が治りますように」とか「問題が解決しますように」という願いを誰かと一緒に祈り求めることを、ときにたじろぐことがある。
祈り求めても思うような結果に至らなかったとき、どう理解すればいいだろうと思ってしまう。
あるいは、祈り求めた後、病気が治ったり、問題が解決したりしたとき、「祈りが聞かれた」と言うことに慎重になる自分がいる。
それでは、祈っても病気が治らなかったり、問題が解決しなかった場合、それは神の御心ではないということなのか、この人が助かることは神の御心で、あの人が助かることは神の御心ではない、なんてことがあっていいのかと考える。
事実、病床に伏して、回復を願いつつもそれがかなわなかった人、祈り求めたようにはいかない人を見てきた中で、一時期、誰かと一緒に「治りますように」「問題が解消しますように」と祈りを合わせることに、たじろぐことがあった。
自分の中の本当の思いを願い求められなくなる、声に出して願えなくなるというのは、往々にしてあるのかもしれない。治るとは限らない、解決するとは限らない現実を何度も体験していればなおさら。
その最たるものが「死」と言えるのではないか。死を前にするとわたしたちは自分の中にある思いを諦めてしまう。もうこれは覆せないと。どんなに生きてほしいと願っても、こればかりはもうどうにもならないと。
求められない願い
新約聖書には死んだ人が生き返る話が幾つかある。イエスはその生涯の中で、何人か亡くなった人間を生き返らせていた。
病気で亡くなった親友ラザロ、葬儀を終え町の外の墓場に移動されようとしていたやもめの一人息子、父親に治してほしいと懇願されるも到着したら既に病気で亡くなっていた少女…。
蘇らされたそれぞれの人たちは、自分で生き返らせてほしいとイエスに頼んだわけではかった。当然のことながら死んでいたので声は出せないし意識もなかった。
ただそこには必死に彼/彼女の回復、生きることを願う誰かの存在があった。兄の死を前に心張り裂けそうになっている姉妹、夫だけでなく一人息子まで亡くし、泣いている母親、たった今亡くなった娘を前に立ち尽くす父親。
しかし、どの場面においても、誰もイエスに直接「この人(子)を生き返らせてください」と願い出る者はいなかった。
それは当然のこと。死んだ人間は生き返らないと誰もが分かっていた。起こり得ないと分かっていて請い願うなどできなかった。わたしたち自身がそう。どんなに大切な存在を失ったとしても、「あなたなら生き返らせてくれるはずです」と誰かに願うことはしない。
今日の場面においても、タビタという女性が死んだ状況で、彼女のことを慕っていたやもめたちの誰も、ペトロに「この人を生き返らせてください」と頼みはしなかった。
その代わり、タビタの遺体を囲んでいたやもめたちは、ペトロに、彼女が一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。
それは、夫をなくし、当時の男性中心主義的家父長制世界で、生活の基盤を失った自分たちを、このタビタという人はいかに支えてくれたかを示すものだった。「この人は、こんなによくしてくれたのに…」というやり場のない悲しみを暗に示すもの。
彼女たちがペトロに次々と見せる下着や上着は、彼女たちにとって今や形見だった。そしてそれは、単に生前のタビタがくれたものであるだけでなく、タビタが自分たちと「一緒にいてくれた」ことを意味するものだった。
彼女たちは「タビタを生き返らせてください」などとペトロに言わない。言わないけれども、何を望んでいるかは明らかだった。彼女たちはタビタとまた一緒にいたい。
やもめたちがタビタと日常の中で深い交わりを持っていたことは、タビタがドルカス、ギリシャ語で「かもしか」という呼び名/あだ名で呼ばれていたことからも想像できる。
日本語訳では「かもしか」となっているので、「かもしか」を知っている方は山の中にいる、鹿をもっとずんぐりむっくりさせたような動物を思い浮かべるかもしれない。
しかしギリシャ語で「ドルカス」とは実際には「ガゼル」のこと。しなやかな足を持って軽やかに飛び跳ねる、優美な姿を持つ生き物。聖書の中で珍しく恋愛をうたう雅歌にも、相手の美しさを表す比喩として登場する。「あなたはガゼルのよう(に美しい)」と。
この呼び名が、タビタ自身の人となりをどんなふうに表すのかはわからないが、やもめたちはそのようなあだ名を、きっと親しみと尊敬を込めて呼んでいたのだろうと想像できる。
そんな関係性を築いていたタビタとの日常を、彼女たちは諦められない。だからこそペトロを呼び寄せ、自分たちとタビタの関係を示す下着や上着を見せずにはいられない。
そして、亡くなったタビタを想う彼女たちの姿は、亡くなった息子や娘、兄への想いを抑えられない人たちを見てイエスが突き動かされたように、ペトロに、彼女たちが無理だと思って願うことさえできなくなっていることを祈り求めさせる。
この物語、ペトロがしたのはタビタを生き返らせることではなく、やもめたちが願いながら、求められなくなっていることを、神に祈り求めることだった。
誰もが「死」という力に打ちひしがれ、タビタが生きることを神に「求めることさえ」できなくなっている中、ペトロは彼女らの思いを聞き届けてもらうよう、ひざまずいて祈り始めた。
ペトロは、死に打ち勝った方が今や天にいるのを思い出した。
「家族」を越えて形作られた交わり
切実な思いを祈り求めることは、実は簡単ではない。わたしも自分自身の助けを必要とする時に祈り求めたことがどれだけあったかと思う。たいていは祈ることなどできなくなった。祈り求めるようになるのは、誰かの助けがあってだった。
ペトロが、タビタのために祈り求められたのは、彼自身の信仰というよりも、やもめたちのタビタへの想いに触れたことが助けとなったのではないか。
イエスも死んだ人を蘇らせたとき、亡くなった人に思いをかける人の姿を見て起き上がらせていたが、その亡くなった人のことを思う人というのは皆家族だった。息子を失った母親、たった今娘を病気で亡くした父親、兄弟ラザロが息を引き取るのを見ていることしかできなかった姉妹。
しかし、タビタの死を嘆き悲しみ、ペトロを呼び寄せまでして思いをかけた女性たちは、タビタと家族ではなかった。彼女らは「やもめ」であり、むしろ家族を失った人たちだった。
タビタとの交わりは、「家族」のようなものだったと言うことができるかもしれないし、あるいは「家族」というものにもはやとらわれない、それを越えた交わりだったと言うことができるかもしれない。
タビタは最初、「ヤッファにタビタという婦人の弟子がいた」と物語で紹介されている。弟子というのは、イエスの弟子ということ。イエスという人は、ご自分を呼びに来た家族を尻目に、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。見なさい。ここにわたしの母、兄妹、姉妹がいる」と周りに集まってきた人たちを指して言う人だった。
それはもしかすると、家族がいない人、家族を失った人、家族として機能していない人たちが新しい家族になる瞬間だった。タビタという女性は、そのイエスに従い、倣おうとしたのかもしれない。
イエスの弟子となったタビタは、「家族」を失った女性たちと、家父長制的な家族の枠組みを越えた、ある種「新しい家族」を形作っていた。
「家族」の枠組みを越えたタビタへの想い、関係性を持つやもめたちの姿が、ペトロを自然、タビタのために祈り求める行為へと導いた。
実は「教会」という交わりは、そういう関係性を紡ぐものなのだと思う。わたしたちが本当は願っていながら求められなくなる多くのことを、素直に祈り求める力が養われる場所であり、交わりなのではないか。
タビタが安置されていた階上の部屋、2階の部屋へ案内され、やもめたちに泣きながらタビタの作ってくれた服を見せられたペトロは、何を考えていたのか。
階上の部屋、2階の部屋という場所は、ペトロにとって十字架にかけられる前のイエスと最後の食事をした空間だった。
また、イエスが復活して天に上げられた後、他の弟子たちや女性たちと宿をとって共に過ごし、ペンテコステの日に聖霊が降ってきたのも2階の部屋だった。
ペトロにとって、二階の部屋という空間は、イエスが一緒にいてくれたこと、これからも共にいることを思い起こさせる場所だった。
そしてそこで、家族を越えて思い合うタビタとやもめたちの関係性に触れたとき、イエスが大切にしたことが目の前の光景として広がったとき、ペトロ自身祈り求めることへと押し出されたのだと思う。
わたしたちはそのような交わりとなれるだろうか。