聖書:ヨナ4:1-11/エフェソ2:11-22
宣教:「除け者じゃなくなって」
賛美:417,393,29
ヨナはニネベの町を嫌悪する
最初に朗読されたヨナ書の話は、教会に集まる皆さんの多くが聞いたことのある話。
神の目に悪とされることを行っていたニネベの町に、神はヨナという預言者を遣わそうとする。しかしヨナはニネベとは反対方向の船に乗り、厄介な役目を課そうとする神から逃げようとした。
そうやすやすと逃さない神は嵐を起こし、船の船員たちはヨナが原因であることを知って彼を海へ投げ入れる。
危うく死ぬところだったヨナは、神が用意した巨大な魚に飲み込まれ、三日三晩魚の腹の中で過ごすことになる。命を救われたヨナは神に感謝し、ニネベに行って神の言葉を語ることにした。
都に着いたヨナは早速町中を巡って告げた。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」
何の救いもない、最悪の説教だったが、なんとニネベの人々は神を信じ、断食をし、誰もが質素な格好をして悪を辞め、神に赦しを祈った。すると神は思い直し、四十日経った日、ニネベを滅ぼさなかった。
今日朗読されたのはヨナ書の最後の場面。神が思い直してニネベを滅ぼさなかったことで、ヨナは怒り狂った。生きているよりも死ぬ方がましだとまで言って。
ニネベの町の人々が改心前にどんな悪を行っていたのか、物語には書かれていない。ただ、聖書で「神の目に悪とされること」が指すのはだいたい異教の神崇拝や偶像崇拝。弱者が虐げられ、正義と公平が蔑ろにされること。
ヨナにとっては、本当の神ではない偶像を崇拝する異邦人は、ただただ関わりたくない連中だったのかもしれない。事実ニネベの町へ行かせられようとした時、ヨナは一目散に反対方向へ飛び出していた。
悪名高い町の人々に「この町は滅びる」なんて言葉を語ればどうなるのか、身の危険を感じたというのもあるかもしれない。しかしどうもそれだけではなく、ヨナはこの町に対して嫌悪感を持っていたのではないか。彼の中には、ニネベの人々に対する「敵意」が渦巻いていた。
「敵意」による「分断」が加速する世の中
わたしたちが今生きる世界は、「敵意」を中心に回っているのかもしれない。
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻以降、世界情勢は一気に軍備拡大に進んだ。欧米各国がロシアへの「敵意」を増し、ウクライナへの軍事支援を積極的に行ったが、それは戦争を終わらせるどころか、泥沼化させることになった。
ガザ地区におけるイスラエルとハマスの戦争は過激化し、双方の犠牲者は増え続け、それによる「敵意」も膨らんでいっている。
日本では今、盛んに「台湾有事」が唱えられ、今までにない軍事費が投入されている。沖縄や「南西諸島」の自衛隊基地は要塞化・ミサイル基地化され、中国の人々には“日本はいつでも自分たちの国を攻撃する準備している”ように映っている。
中国への「敵意」が煽られていることを、世の中が受け入れてしまっている。
初期キリスト教会における「敵意」と「分断」
今日ヨナ書の後に朗読された、エフェソの信徒への手紙は、初期のキリスト教会の複雑な状況の中書かれた手紙。
イエスの弟子たちによって始まったキリスト教会は、最初ユダヤ教内部の運動だった。しかし、異邦人にわかるギリシャ語を話すユダヤ人キリスト者たちの宣教は、ユダヤ人を超えて異邦人にも広がっていった。
イエスを信じ、キリスト者になった異邦人たちは、ユダヤ人男性であれば生まれてすぐ受けることになる割礼―性器の包皮を切り取る儀式―を身に受けていなかった。
割礼はユダヤ人にとって自分たちが「神の民」である印。信者となる異邦人も割礼を受けなければ、神に救われる「神の民」になれないと考える人たちも多かった。
ユダヤ教の律法が定める、何を食べてよく、何を食べてはならないという「食物規定」や土曜日は一切の仕事をしてはならないという「安息日」の規定も、異邦人信者に守らせるべきと考えられることも多かった。
新約に多くの手紙を残すパウロは、異邦人もユダヤ人も、そのような律法遵守によって神に救われる「神の民」となるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるのだと語り続けた。
逆に言えば、何度も色んな手紙でそう言わねばならないほど、律法を持たない異邦人キリスト者と、律法を守り続けてきたユダヤ人キリスト者の間には緊張関係があった。
エフェソの信徒への手紙は、パウロの名で書かれているが実際にはもう少し後の時代の、違う人の手によって書かれた手紙。その頃になってもまだ、教会の中でユダヤ人と異邦人の間の関係は複雑だったのだと思われる。
この手紙が回覧されたアジアの諸教会にいたのはほとんどがギリシャ人などの異邦人で、ユダヤ人は少数者だった。
一方で、ローマ帝国支配下の世界で、植民都市になっているアジアの人々には、支配者側と被支配者側、ローマ市民権を持つ者とそうでない者、異教的背景を持つ者とイスラエル宗教の背景を持つユダヤ人がいた。彼らの間には何層も重なった「分断」があった。
「救われる」「神の民となる」ということは
今日の箇所で、エフェソの信徒への手紙は印象深い言葉を語りかけている。「キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」
ローマの支配体制を壊し、抑圧から開放してくれると期待していたのに、そうではなかったと怒りを放つユダヤ人、自分たちが大切にし教えてきたこととを批判して人々の心を掴むイエスに憎悪を向けるファリサイ派、ユダヤ人の間で度々騒ぎを起こし、国家にとって厄介な人物であるイエスを危険視するローマ当局。
それらの「敵意」に対し、イエスは「敵意」をもって返すのではなく、肉体をもって受け止められた。十字架上の死によって。
そして三日目に復活されたイエスは、イエスを十字架にかけてしまうような者たちの許へ、何度も現れ、「あなたがたに平和があるように」と語られた。
「敵意」に「敵意」で返すのではなく、「和解」へと招き続けた。
キリスト教において「救われる」ということは「和解」の出来事。イエスの十字架によって神と「和解」させられたことを受けとめて生きていくこと。
エフェソの信徒への手紙は、ただ単に「あなたがた異邦人も救われた」「あなたがた異邦人はもう除け者ではない、神の民に入れられたのだ」と言うだけでなく、自分たちとの間に「隔ての壁」があったユダヤ人とも「一つにされている」ことを繰り返し語りかける。
「このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて」「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」「キリストにおいて、あなたがたも共に立てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」というように。
たぶんこのことは、当時の読者に挑戦的なことだったのではないか。緊張関係があるユダヤ人と自分たちが、神によって本来「一つにさせられている」ものなのだということは。
・ パウロは、異邦人キリスト者に対して、割礼を受けていなくても、イエス・キリストを信じることによって救いに入ったのだ、神の民に入っているのだ。もはやユダヤ人もなくギリシャ人もない、ということは言っても、さらに一歩進んでユダヤ人と異邦人とが「一つにされている」とまでは言っていなかった。
・ だからこそ、ここにはこの手紙の強いメッセージがある。現実に「敵意」がある、「隔ての壁」がある教会内外の関係性に訴えかけている。神によって和解させられ、一つにされることこそ、神の民として救われるということだと。
「和解」の出来事
最初に朗読されたヨナ書の物語の最後は、「オープンエンド」という開かれた終わり方だった。人によっては唐突に打ち切られた終わり方に見えるかもしれない。この後どうなったのかは読者に想像を働かさせる終わり方。
ヨナは、ニネベの町が神に滅ぼされないことを知って怒りに満ちていた。彼の中にはニネベの人々に対する「敵意」が、最初神の命令であるにもかかわらず反対方向へ逃げたことからも分かるように、物語の最初から最後まで見え隠れする。彼にはニネベが神に赦され、滅びを免れたことが受け入れられない。
しかし、ヨナはそもそも、神の前から逃げ出し、自分から離れようとしたにもかかわらず、嵐の中神に助け出され、巨大魚の腹の中、神との「和解」へと招かれた人だった。
実は神がニネベを惜しみ、憐れんだことは、ついさっきヨナ自身に起こった出来事だった。
そして今、神はニネベに「敵意」を持つヨナを、ニネベの人々との「和解」に招こうとしている。一夜にして生じ一夜にして枯れたとうごまの木を惜しむヨナに、神がそれ以上に惜しむニネベの人々に対する想像力を働かせる。
ヨナ書はここで唐突に終わる。この後ヨナがどう反応したのか最も気になるところで物語は打ち切られる。道徳の教科書であれば、ヨナが思い直した描写が入ってスッキリして終わるところ。
だからこそ、ヨナはこの後どうしただろうかというわたしたちの想像は自然、自分ならどうだろうかという、わたしたち自身に重なる事柄となる。
息子を亡くした母が始めた対話
最初に言ったように、今世界では、「敵意」がわたしたちを突き動かすようになり、それによってしか救いはもたらされないと錯覚するようになっているかもしれない。しかし、本当はそんなもので救いはもたらされないと、わたしたちは本当は分かっているはず。
イスラム組織ハマスの奇襲攻撃で、イスラエル人のイラナ・カミンカさんは、当時20歳だった息子ヤナイさんを亡くした。ハマスによるイスラエル側への奇襲攻撃があった日、兵役についていた息子は近くの住民やまだ経験の浅い兵士たちをシェルターに非難させたあと、自分は基地を守ろうとして、撃たれたという。
イスラエルでは国民の多数がハマスへの「敵意」を示し、軍事作戦を指示し続ける中、イラナさんは多くのイスラエル人とは異なる立場を取ることを決めた。「暴力では解決しない」と声をあげ始めた。
きっかけとなったのは、生き残った息子の部下の兵士たちから聞いた、ヤナイさんの生前の姿だった。
息子のヤナイさんは、部隊で毎晩のように、寝る間も惜しんで後輩たちと向き合い、悩み事などの相談にのっていた。部隊には少数派のイスラム教徒の兵士もいて、なじめずにいたが、ヤナイさんは誰とでも分け隔てなく付き合っていたという。
ヤナイさんは短い会話ではなく、深く会話することを大事にしていた。ひざを突き合わせ、「僕は君たちのことを知りたいんだ」「君たちの痛みを知りたいんだ」と話しかけていた。
他人との「対話」を生きる上で大切にしていた息子。それを知ったイラナさんは、息子のような犠牲者をこれ以上出さないためには、自分も「対話すべきだ」と考えるようになった。
イラナさんは、テルアビブで開かれた平和について考える市民の集会で、イスラエルの人たちに語りかけた。
「私は自分の息子についてお話ししますが、それは国のために死ぬことが英雄だと思ってほしいからではありません。」
「わたしたちはみな大きな痛みを感じています。そういうとき、怒りにまかせ、暴力に向かいがちです。暴力によって状況がよくなることを信じて。」
「でも私はそうは思いません。政府は『勝利』という言葉を掲げます。でも私にはその意味は分かりません。私には亡くなった長男のほかに3人の子どもがいます。次男は先週、兵役につきはじめました。この状況をどう改善するか考えなければ、わたしたちすべてに待っているのは『敗北』しかありません」
「私が戦っているのは、ハマスではなく、“人々が抱く妄想”です。その妄想というのは、さらに多くの人を殺せば戦争は終わり、安全が訪れるという思い込みです。これは難しく、複雑な問題です。お互いの話に耳を傾けることでしか変化は訪れません。他の人の考えを受け入れたり、すべて賛成する必要はありません。せめて対話して話を聞くことを学びましょう。わたしたちには平和的に解決するしか、選択肢は残されていません。」
これは、いつ終わるとも知れないウクライナ・ロシアの戦争にも、「台湾有事」、「北朝鮮のミサイル」と盛んに煽って、粛々と要塞化していっている日本のわたしたちにも、深く響く言葉ではないか。
除け者じゃなくなって
初期キリスト教会は、自分たちの内にある「敵意」や「分断」と何度も向き合わなければならなかった。
それは今の時代、わたしたちの世界においても、日常においても、わたしたちの教会においても変わらないかもしれない。
だが、自分たちのために十字架にかかられたイエスを信じ、自分たちの間の「敵意」は本来取り除かれたのだ、自分たちは「和解」へと常に招かれているのだと諦めなかった教会の姿が、エフェソの信徒への手紙から、今のわたしたちに迫ってくる。
力を示すのではなく、十字架の上でボロボロになった救い主を信じることで、わたしたちは「神の民」へと招かれたのだとパウロは教え、エフェソの信徒への手紙はさらに、神に和解させられたわたしたちは、自分たちの間にある「敵意」も「隔ての壁」も取り除くことが出来るはずだと語りかけている。
わたしたちがヨナなら、これからどう生きていくだろうか。