聖書:ミカ4:1-7/ヘブライ12:18-29
宣教:「天も地も揺り動かす声」
賛美:357,580,29
終末の出来事
新約聖書には様々な箇所に、いつかやってくる世界の終わり、イエスが再び地上に来られ、古い世界を終わらせ、「新しい天と地」が造られる日のことが描かれている。
今日読んだヘブライ人の手紙の箇所もその一つ。初期キリスト教会の人々は終末の出来事を、神の救いがこの世界に徹底的に実現される日として待ち望んでいた。そしてそれは、当時の人々が生きている間に来るのではないかと信じられていた。
現代のわたしたちには、「将来的に終末が来る」、「イエスの再臨の日がやって来る」と言われてもピンとこないかもしれない。あるいは「世界の終わり」が来るから地獄に落とされないよう、神を信じないといけない」と、不安や恐怖心を煽って入信させようとする団体があることを思い出すかもしれない。
今日最初に読んだ旧約の、ミカという預言者の言葉にも、「終わりの日」という言葉が出てくる。ただしそれは、恐怖によって悔い改めさせたり、不安にさせようとするものではなかった。
ミカは、「終わりの日」は、多くの民が「剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」日となり、神が「足の萎えた者を/残りの民としていたわり/遠く連れ去られた者を強い国とする」日なのだと語る。
聖書の中で「終末」というのは、わたしたちにとってとっくに壊れている、正常ではない世界に、神が終わりをもたらし、新しく造り変えてくださるのだ、という「希望」に重きが置かれている。不安や恐怖を殊更に煽りたいのではなくて。
そして、神が徹底的に御業を行う「終わりの日」は、単にいつかポンとやって来るのではなく、イエスが地上に来られた時から始まっており、地上のわたしたちも神のみ心が実現されるその日まで用いられているのだと、キリスト教は歴史の中で認識するようになった。
だからこそ、今日の手紙は「キリスト者の生活」、「キリスト者としてどう生きるのか」を勧める。
この世界がすべて神のみ心に適うものへと創り変えられるなら、きっとミカが預言するように戦争などの争いはなくなり、虐げられる人などいなくなる、理不尽な目に遭って苦しむことなどなくなる世界になるのかもしれない。
そういう世界の実現のために、今地上に生きるわたしたちが用いられるとしたら、どんなふうに生きるのか、どんな生活をすればいいのか、わたしたちは難しく考えるかもしれない。一体自分たちに何が出来るのかと。
しかし今日の手紙は、拍子抜けするかもしれないことに、「これをすべき」「あれをすべき」以前に、「イエスを通して語られた、神の言葉を聞く」ことにわたしたちの意識を向けさせる。つまりは「礼拝」へと心を向けさせる。
神の語りかけは恐ろしい?
礼拝で聖書の物語を聞く時、神が預言者を通して語られた言葉を聞く時、イエスが弟子たちに語られた言葉を聞く時、初期キリスト教会の指導者が書いた手紙の言葉を聞く時、わたしたちは時に戸惑い、時に居心地を悪くし、時に恐れおののく。
実際今日の手紙が朗読されるのを聞いて、皆さんは内容が頭に入ってきただろうか。だいぶ戸惑ったのではないか。わたし自身聖書日課が今日この箇所を指定しているのを見て「なんで」と声を漏らした。
「世の終わり」に関連する箇所は、個人的にあまり触れたくないと思ってしまう。「恐怖」や「不安」を煽ることが目的ではないと分かっていても、やはり恐ろしいイメージというのが先行してしまっているから。
ただ今日の手紙は、冒頭からこう言っている。「あなたがたは(…)燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。」
燃える火とか、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音というのは、当時人々が、神が現れる時に起こると考えたしるしであり、神が顕現する、神が語るということそのものが、恐ろしさに満ちたイメージだった。それは出エジプトの物語から来ている。
神がモーセを通して語りかけた時
かつてヘブライ人たちは、エジプトの地で強制労働に服していた。その苦しみを聞いた神はモーセを立て、彼に民を導き上らせることで、約束の地へ向かわせた。
しかし、エジプトの戦車に追いかけられる中、行く手を海に阻まれる絶体絶命のピンチに陥ったり、荒野では喉の乾きと空腹に悩まされたヘブライ人たちは、しばしばモーセに不満を訴えた。「エジプトでの生活のほうがまだマシだった」と言って。
困難に見舞われる度、今まで神が何度も窮地を救い出してくれたのに、彼らはモーセの言葉に耳を貸さなくなった。神は怒り、ご自分が与えると約束した地へすぐ導くのではなく、その世代が絶えるまで、四十年間荒野をさまよわせた。
このことが、今日のヘブライ人への手紙では、神がモーセを通して語られた言葉を拒んだ者たちに、罰が与えられた出来事だとされている。(ただ「罰」という言葉は、日本語訳する時に補足で加えられたもの。ギリシャ語の原文では、ここにそういう単語があるわけではない。)
とはいえ、荒野でさまようことになった四十年、ヘブライ人たちは神の導きを失ったわけではなかった。
神は高い山の上から語りかけ、ヘブライ人たちはモーセを通して神の言葉を聞き続けた。自分たちの行くべき方向を、日中は行く手に雲の柱が立つことで、夜は燃える火の柱が立つことで知ることが出来た。
一方でそれは恐ろしい光景、恐ろしい轟音でもあった。神が山の上で語りかける時、ヘブライ人たちは神が語りかけるその声とその光景を非常に怖がった。彼らは、直接神と相対せば自分たちは死んでしまうと思い、モーセに間に立ってもらわなければならなかった。
つまり、神に語りかけられるということは、「これ以上語ってもらいたくない」と思わず願ってしまうような恐ろしさを伴った。
わたしたちが、「終末」の出来事、「この世の終わり」、「イエスが再び世に来られる時」というのを、できればあまり語ってもらいたくない、恐ろしいイメージで捉えるのと同じように。
イエスを通して語られる神の言葉
しかし今日の手紙は、神の言葉は、もうそのような恐ろしいものなどではないのだと語り始める。恐れとおののきの中で神の言葉を受けたモーセの時代と違い、今わたしたちはイエス・キリストを通して神の言葉を受けているのだということを言っている。
イエスの弟子たちに聖霊が降った出来事を記念するペンテコステを迎えてから、今日は第5週目の日曜日。あのペンテコステの日、弟子たちは聖霊によって様々な言語で神の福音を語り始めたことから、聖霊降臨節は「神の言葉」というものを考える季節でもある。
だからこそ今日、「神の言葉を聞く」ということがある種聖書日課によってテーマにされているのだと思う。
聖霊が降った時、弟子たちは自分たちのいる家中に響く激しい「風」の音を聞き、突然一人ひとりの頭上に現れた「炎のような舌」を見た。
「風」の轟音や「炎」といった表象は、モーセの時代に神が現れる時、民に語りかける時に伴ったものだった。しかしペンテコステの日、それは、モーセの時代と違って、ただ恐ろしいだけの光景ではなかった。
なぜなら、聖霊によってもたらされた「神の言葉」は、弟子たち本人の、一人ひとりの口を通して語り始めたから。神が共にいる、イエスが共にいる、ということが聖霊が自分の内側から働きかけることで強烈に実感できたのではないか。
イエスは今、自分たちと一緒にいるのだ、自分たちと一緒に働きかけてくださっているのだと実感し、「勇気」と「希望」を与えられる出来事だった。
そしてそれは、「神の言葉を聞く」ということが、「自分たちを通して神の言葉が世界に働きかける」という光景だった。
わたしたちが礼拝で御言葉を聞く時、今日の箇所のように「戸惑い」が、場合によっては「恐れ」や「不安」が生じるかもしれない。
しかし、イエスが地上に来られた時から、「神の言葉」は、たとえ厳しいものだとしても、わたしたちを恐怖や不安によってコントロールするのではなく、感謝して生きることへ導き、希望を抱かせ、勇気を持って行動することへと押し出そうと働きかけてくださる。
聖書から終末の出来事が語られる時、わたしたちはこのことを忘れないようにしたい。
「み国が来ますように」と祈ること
繰り返しになるが、聖書が語る終末、最後の審判、イエスの再臨という将来の出来事は、「滅ぼされたくなくば信ぜよ」とか、「地獄に落ちたくなければこうせよ」といった、恐怖や不安でわたしたちをコントロールしようとするために語られているのではない。
むしろ、「こんな世界が変わることなどありえないのだ」「もうどうしようもないのだ」と思い込み、自分たちに出来ることなど何の意味もないとわたしたちが諦めそうになる時、正義を決して有耶無耶にしない神、救いを必要とする一人ひとりを決して放っておかれはしない神がおられることを示すのが、これら将来について描かれる出来事。
だからこそわたしたちは毎回礼拝の中で、「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地上でも行われますように」という主の祈りを祈り続ける。
同時に、今自分たちがこの地上で為すべきこと、語るべきことを探り求めながら生きていく力を与えられる。共にそのことを信頼して、今日もここからそれぞれの日常の現場へと送り出されていきたい。