聖書:マルコ10:13-15
宣教:「こどもみたいな人」
賛美:105,171,29
子どもの日・花の日
毎年6月第2週目の日曜日は、教会暦で「子どもの日・花の日」と呼ばれ、祝われてきた。
元々は、アメリカ、マサチューセッツ州の教会のチャールズ・H・レナード牧師が、毎年6月の第2日曜日の礼拝で、子どもたちを集めて「子どもの日の礼拝」を行ったのが始まりと言われる。
夏の花が咲き始める頃なので、同時期に「花」にまつわるイベントや礼拝も行われ、「子どもの日」と「花の日」が結びついた。
信徒たちは花を持ち寄って教会を飾り、礼拝の後に子どもたちがその花を持って病院を訪ね、病人を見舞ったり、警察署や消防署といった各施設を訪問するイベントを通して、子どもたちに奉仕の精神と感謝の気持を学ばせる機会となった。
今、鈴蘭台教会では子どもというと、だいたい毎週いるのは我が家の2歳の息子が一人。月一回行っている「子どもの教会」の礼拝も閑古鳥が鳴いているので、なかなか「子どもたちとの礼拝」をする機会を持てずにいる。
しかし、水曜日と日曜日の午後3時から開いているオープンチャーチにはだんだん地域の、キリスト教と殆ど触れたことのない子どもたちが集まってくるようになり、教会を居場所にしつつある。
先月22日の水曜日には、近所の西鈴蘭台頌栄保育園の年長さんたちが、鈴蘭台教会に来て、この礼拝堂で一緒にペンテコステ礼拝をまもった。
わたしがチャプレンをしている神戸YMCAちとせ幼稚園の子どもたちも先週の火曜日に来て、子どもたち一人ひとりの頭にわたしが手をおいて祝福する礼拝を持った。
今週の金曜日には西神戸YMCA幼稚園の子どもたちが来て、花の日の礼拝をここでする予定。
おそらく来週の日曜日には、金曜日に子どもたちが持ってきてくれるお花が保つと思うので、礼拝堂を華やかにしてくれる。
子どもを招く理由
教会はそもそもなぜ子どもたちを大切にするのか?
伝道、宣教というのと結びつけて考えるかもしれない。子どもたちはいつか大人になり、教会の交わりに参加する一員となってくれたら嬉しいから。教会を支える存在となってくれたら嬉しいからと。
しかし、教会がこどもたちを招く本来の理由は、今日の箇所にあるように、イエスが「子供たちをわたしのところに来させなさい」と言われたから。
「いつか大人になって役に立つから」とか、「いずれ教会を支えてくれるようになるから」ではなく、イエスははっきりと子どもたちそれ自身を招いて言った。「妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と。
子どもを追い出す理由
マルコによる福音書では、イエスが群衆に教えていると、ある人たちがイエスに触れてもらおうと子どもたちを連れてきたとある。おそらくはその子たちの親や家族が、子どもの頭に手をおいて祝福を祈ってもらおうと思って連れてきた。
しかし他の大人たちからすれば、イエスの言葉に集中していた時に突然ガヤガヤと騒がしい子どもたちが乱入してきた。
ここで「子供」と訳されている単語は、だいたい幼児から12歳くらいまでの子供を指す幅広い概念。
今礼拝しているこの時に、何人もの子どもたちがテクテク入ってきたら、わたしたちも落ち着かなくなるはず。
この前ちとせ幼稚園の子どもたちがここで礼拝した後、毎年わたしの頭を悩ませる質問コーナーが今年も用意されていた。
礼拝の中でペンテコステの話をするが、今年も一番最初に手を上げた男の子が「聖霊って何?」と聞いてくる。
「神様、イエス様が送ってくれる目に見えない力なんだよ。」「外で吹いている風とか、みんなが普段呼吸している時の息とか、目に見えないけどみんなのこと生かしてくれているでしょ。聖霊もいつも一緒にいるんだよ」と説明する。
その後、「他に質問のあるお友達はいるかな?」という先生の問いかけに、もう一人の女の子が手を上げる。出てきた質問は、「えっと、聖霊ってなあに?」
普段毎週2つの幼稚園で行っている礼拝でも、礼拝の中で質問や応答がバンバン飛び交う。うっかりこちらから問いかけようものなら、しばらく子どもたちの手が上がりっぱなしになる。
礼拝中、「人はパンだけで生きるものではない」というイエスの言葉を話している時に、「そりゃそうでしょ」と合いの手を入れられる。鈴蘭台教会の礼拝でそんなことはないわけで、子どもというのは本当に予測がつかない。
イエスが話しているところへ子どもたちが連れてこられた時も、収集がつかなくなったのではないか。
静かに聞く大人たちのところへざわざわ入ってくる子どもたち。友達とおしゃべりする子、見知らぬ人が大勢いて泣き出す子、落ち着きなく歩き回ったり走り出す子、イエスの話にいちいち反応する子…。
弟子たちが子どもを連れてきた人たちを叱ったというのは、たぶん今ここで同じことが起こった時わたしたちがするのと同じ反応。「ここは礼拝の場なんだから。静かにできない子どもは申し訳ないけど別の部屋で遊ばせておいて」というように。
もしわたしたちが礼拝の場から子どもたちを追いやろうとしないとしたら、それは「大人しい」子どもだからかもしれない。あまり騒ぎ立てず、それなりに静かに過ごせて、笑顔が可愛くて、聞き分けの良い子どもだったら、居ても来にしないかもしれない。
子どものように神の国を受け入れる?
しかしイエスのところに連れてこられた子どもたちは、そんな子どもではなかった。弟子たちが連れてきた人々を叱ったくらいには、大人の心をざわつかせる子どもたちだった。
今日考えたいのはそこのところ。イエスが「わたしのところに来させなさい」と言ったのは天使のような存在ではなく、子どもらしい子どもだったということ。
わたしは、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」というイエスの言葉を、「子どもは神の国を素直に受け入れるから、そういうふうになりなさい」ということではないと思う。
たぶんわたしが幼稚園で「神の国」について話したとしたら、その後子どもの一人が「ねえねえ、神の国って何?」と聞き、焦って言葉を紡ぐと、また別の子が「あのね、神の国って何?」と聞くのが容易に想像できる。
むしろ大人の方が、心に浮かぶ疑問や、納得行かない気持ちを抑えて聞いてくれて、素直に受け入れているように見えるかもしれない。子どもの方がそうはいかない存在ではないかと思う。
古代世界では、「子供」は一般に軽んじられた存在だった。律法は十分に理解できず、したがって律法遵守など出来ない存在。一人では出来ないことがたくさんある未熟な存在であり、いつも誰かの助けを必要とする存在。
つまり、「子ども」というのは、社会的に最も弱く小さな存在だった。
よく親から子への愛情を「無償の愛」と称すが、実際には逆かもしれない。
ここ最近、わたしは教区の仕事でいっぱいいっぱいになっていたが、余裕をなくしていたのか、不機嫌なわたしの顔がこわばっていたのか、うちの2歳の子どもから、抱っこしようとした時に「パパ怖いー」と言われ、逃げられてしまった。
子どもを怖がらせるような顔をしていたのかとショックを受けたが、ちょっと時間が立つとまた、「パパ抱っこー」と寄ってきてくれた。思えば、悪いことをして叱った後も、だいたいビタッとくっついて抱っこ族になる。
そういう時、むしろこれこそ無償の愛ではないかと感じる。子どもは、実は、弱く小さな存在であることを、本能で分かっているのではないかと思う。自分ひとりでは生きていけないこと、自分は助けを必要とする存在なのだということを、ある意味最も素直に受け入れている存在。
イエスの、「子どものように神の国を受け入れる人」というのは、わたしたちが子どものように弱く小さな存在となることを指しているのではないか。
助けを必要とする、救いを必要とする存在であること、自分には何も出来ない、どうにも出来ないと思っている人をこそ、イエスは「神の国はこのような者たちのものである」と招いておられる。
子どもを必要とするイエス
今日の話でもう一つ注目したいのは、イエスが子どもたちを追い出そうとした弟子たちを見て「憤った」と書かれていること。この単語は、激しい憤りを表す動詞で、イエス自身が主語になって使われるのはここだけ。かなり人間的な感情の現れ、激しい態度。
もっと言えば、今日の物語は珍しくイエスの「必死さ」が垣間見える場面。
わたしたちはついつい、子どもを受け入れるイエスの寛容さ、優しさ、愛情深さ、大人の余裕といったイメージでこの場面をイメージするかもしれない。イエスに祝福を祈ってもらうことを必要とする子どもたちを、イエスは追い出すことなく受け入れてくれたのだと。
しかし、本当はイエスの方が、子どもたちを必要としていたのではないか。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
これはイエス自身が、そして神が、何も出来ないような存在である子ども、弱く小さくされた存在である子どもを、君たちがいないと困る。わたしにはどうしてもこの子たちが必要だと切実に求めている姿。
イエスは子供たちを「抱き上げて」手を置いて祝福する。この所作は、実際に目にすればきっと、イエス自身がどうしようもなく子どもを好いており、大事にしており、大切にしていることが伝わってくるもの。
神を信じる時、わたしたちは見守ってくれる存在として、助けを求める相手として、救いを求める相手として、神を必要とするかもしれないが、神もまた、そんな、助けを必要としているはずのわたしたちを愛し、必要としていることを今日は特に覚えたい。