聖書:申命記6:17-25/ローマ10:5-17
宣教:「誰でも救われるジレンマ」
賛美:69,81,29
万人の救い
今日の箇所、ローマの信徒への手紙の冒頭には、「万人の救い」という表題が付けられている。新共同訳聖書の様々な段落に付されている表題は、元々聖書にあるものではなく、日本語に翻訳する際、わかりやすいように付けられたもの。
「救い」ということについて、わたしたちは様々なイメージを持っている。日々平穏無事に過ごせることだったり、死んだ後天国に行くことだったり、困難な状況が変わること、戦争が終わること、起こらないこと、病気が治ること、痛みがなくなること、家で一人佇む時、孤独を感じなくてすむこと。
キリスト教が伝える「救い」を説明しようとして、「罪からの救いであって、ご利益や即物的な困難の解決とかとは違うんだ」と言われることがある。
でも聖書の時代の人々も、帝国支配下の圧政からの救い、貧富の差による生活苦からの救い、病とそれによる差別からの救い、飢え渇きからの救いと、生きる上で感じる様々な苦しみからの救いを欲していた。
イエスもまた、そのような「救い」を求める人々の思いを、切り捨てるようなことは決してされなかった。人々に触れて病を癒し、パンと魚によって飢えを満たし、神殿の権力者や王に物申した。そして、「神の国は近づいた」と語り続けた。
わたしたち一人ひとりが切実に求める「救い」に、「それは間違いだ」「そんなこと願ってはならない」などと教え諭すことはなかった。
ところが、教会に長くいるうちにわたしたちは、神によってなされる「救い」に、条件をつけてしまうことがあるかもしれない。
誰より牧師がそれをしがちなのかもしれない。様々な不安や恐怖に苛まれて教会の門をたたいた人に、「あなたの求める救いはちょっとずれています。ここは病院じゃないんです」と送り返してしまう。
生活苦に悩んで来た人に、「それは教会の管轄外です」というような説明をして詳しく話を聞くことなく去らせてしまう。
社会的、政治的な問題に苦しむ人が教会につながっている時、それは信仰生活とはまた別のことだと蓋をしてしまう。
牧師でなくても、わたしたちは互いが求める救いを、最初からそういうことを神はどうにかしてくれるわけではないと諦め、向き合えなくなることがあるかもしれない。
だから、「万人の救い」「万人救済」と聞いた時、わたしたちはどこかで「その救いには制限が、条件があるのではないか」と思ってしまう。本当に誰もが「救われた」と実感できる時が来るのだろうかと。
救いの条件?
初期キリスト教会においても、神からの救いについて、救われるということについて、条件があると考える人たちがいた。
その人たちは一つの結論を出した。「神が心をかけてくれるのは、律法を守る民、ユダヤ人だ。律法を守り続けることで、自分たちは神の民であり続けるのだ。」
その思いは、一方的に自分たちユダヤ人を選び出してくれた神に、神の民としてあり続けようという、とても真面目なものだった。
しかし同時に線を引いた。ユダヤ人以外の人たちに対して。その人たちに神が関わり続けるには、自分たちと同じユダヤ人とならなければならない、律法を守る人にならないといけない、そう思われた。
ところが、ローマの信徒への手紙を書いたパウロは言った。「心のなかで『だれが天に上るか』と言ってはならない。…『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」「主の名を呼び求める者は、誰でも救われるのです。」
「この人は救われる/この人の求める救いはきっと与えられる」「この人は救われない/この人の求める救いはきっと聞かれない」とわたしたちが条件をつけることに対して、パウロは危険だと知らせます。
「だれが天に上るか/救われるか」と言うのは、空間を超えて、歴史を超えて、いつもわたしたちと共にあり続けるために天に上られたイエスを、天から引き降ろそうとするのと同じことだ。
「だれが底なしの淵に下るか/救われないか」と言うのは、十字架にかかって死に、陰府に下って死者のもとにまで行き、救いをもたらされたイエスを、死者の中から引き上げることと同じことだ。
つまり、わたしたちが求めているはずの救い主に向かって「あなたには救えません」と制限をかけるようなものだということ。
わたしたちは、互いが求めている「救い」というものに意識を向ける時、自分には思い描くこともできなかった神の救いの業を、共に求めることになるのではないか。
誰かが「救い」を求める状況
私たちは、線を引くことに、どこか躍起になってしまう。救いというものを考える時に。日本人なのか韓国人なのか、白人なのか黒人なのか、女性なのか男性なのか、左翼なのか右翼なのか、リベラルなのか保守なのか。それによって、誰が「神の民で」誰が「神の民でないか」はっきりさせたくなる。
でもパウロは、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」と言う。
あの人がこうなったら救われるだろうに、あんなふうでなければ救われるのに、と思う私たち。「自分は差別に反対する『側におり』、排他的な思想にNoと言う『側におり』、社会正義を求める『側にいる』から、“神の民”、“本当の”キリスト者、“真っ当な人”である」どこかで無意識にそう思う自分がいるかもしれない。
それとも、「自分は聖書に書いてあることをすべて正しいと信じる『側におり』、人間中心主義的な解釈にNoと言う『側におり』、福音宣教だけをただただ求める『側にいる』から、“神の民”、“本当の”キリスト者、“真っ当な人”である」と思うかもしれない。
救いに境界線を張りたくなる。いつの間にか、必死になるから、真面目になるから、わたしたちはそれを作ってしまう。でもパウロは私たちの境界線を台無しにする。「主の名を呼び求める者はだれでも救われますよ」と言って。
わたしたちは本当に、「だれでも救われる」ということを実感できるのか。それは、「救い」を必要としている人と一緒になってその救いを求めることでしか、気づくことの出来ない神の業なのではないか。
ユダヤ人もギリシア人もなく、すべての人に同じ主がおられるというパウロの言葉は、救いを必要とするギリシア人の状況、救いを必要とするユダヤ人の状況を、お互いが知ろうとし、分かり合おうとし、共に神へ求めることで実感できるものだと気付かせようとしているのではないか。
パウロは、「救いは律法によらないんだ」「神が関わってくださるのに、律法を守る者であるかどうかは関係ないんだ」ということを口酸っぱく言った人だった。「ユダヤ人であるかどうかは関係ない」と。その人が何者で、どこに属しているかなんて関係ないと。キリストを信じてしまった時点で、もうその人は神にロックオンされているんだと。
北朝鮮の人でも、日本人でも、ウクライナ人でも、ロシア人でも、パレスチナ人でもユダヤ人でも、性的マイノリティでも、人種差別主義者でも、神にロックオンされたなら、その人自身が破綻していようが契約不履行を起こそうが、神がかまい続けることにした人だと。
わたしたちは心の何処かで行っている救いの線引きを、もう一度見つめ直すことが必要なのだと思う。そしてそれは、神が本当に与えてくださっている救いを、もっと豊かにわたしたちに示すものなのではないか。