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執筆者の写真鈴蘭台教会 日本基督教団

2024/05/26(日) 聖霊降臨節第2主日礼拝 宣教要旨

聖書:イザヤ40:12−17/1テモテ6:11-16

宣教:「いのちを得るってどういうことか」

賛美:351,538,29


三位一体主日

  • 今日はキリスト教の暦で「三位一体主日」と呼ばれる日曜日。先週のペンテコステ礼拝で、わたしたちはイエスの弟子たちに聖霊が降った出来事を思い起こした。今日はその「聖霊」が、父なる神、子なるイエスと「一体の存在」なのだと思い起こす日。

  • わたしたちは今、神を目の前に見ることも、イエス・キリストを目の前に見ることもできない。すべての人に分かる形で神の声が天から聞こえてくるようなこともない。触ったり、見たり、聞いたりして、その存在を確かめることは出来ない。

  • それでも、目に見えない力として「聖霊」が、神/イエスの許からわたしたちに送られているのだと覚えるのが聖霊降臨節と呼ばれるこの季節。

  • ペンテコステの出来事は、突然激しい「風」が弟子たちの集まる家に吹き付けてきたことから始まった。普段はあまり意識することのない「風」は、目に見えずともたしかにわたしたちの周りをめぐっている。

  • シャボン玉を吹いた時、ふわふわ浮いて空を飛んでいく様子を見ると、無風に思える日でも、微細な「風」が吹いているのだと気づく。

  • 普段意識することなく呼吸するわたしたちは、体の内と外を絶えず小さな「風」「息」がめぐっている。聖霊の「霊」という言葉は、そもそもこのような「風」「息」と同じ言葉だった。

  • 自分は「聖霊」がピンとこない。「聖霊」が働きかけたことがあるのかよくわからないと思うかもしれない。何か超自然的な奇跡的な出来事が起こらなければ、「聖霊」の働きは来ていないと考えるかもしれない。

  • しかし、わたしたちが意識を向けることが出来ていない、あまりにも当たり前に過ごしている生活の中に、「天に上げられたイエスが地上のわたしたちと共にいる」という「聖霊の働き」がたしかにあるのだということを、今日は覚えたい。

無理と言いたくなる生き方

  • 今日読んだテモテへの手紙一の箇所は、生きる上での勧めを説いているような箇所。わたしたちが「言うのは易し、行うのは難し」と言いたくなるような、綺麗事を連ねているような内容が並ぶ。

  • 冒頭から「神の人よ」と呼びかけられ、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」と言ってくる。「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠のいのちを手に入れなさい」と仰々しい勧めをしてくる。

  • 簡単にまとめてしまうと「いい子であれ」という教えに聞こえる。しかし、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」、「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠のいのちを手に入れなさい」、「落ち度なく、非難されないように」クリスチャンとしてそんなふうに生きられるかと聞かれたら、「そんな完璧超人いません」という本音が漏れる。

  • 2021年に発刊を終了してしまったが、『Ministry〜次世代の教会をゲンキにする応援マガジン』という雑誌があり、かつて「牧師と司祭の育て方」という特集が組まれたことがあった。その中で牧師養成や教会人事に関わる人たちの対談でこんなことが書かれていた。

  • 「かつては新米の牧師を迎えてもみんなで育てようという気風が教会にもあったのですが、最近はまったなしの状態なので牧師を育てるなんて悠長なことは言ってられないんですよね。『即戦力をくれ』と。後任として来る牧師への希望は、『30〜40代。子どもがまだ小さくて、良い説教をしてほしい。役員会をうまく回してほしい。いろいろな集会を上手に企画してほしい。できたら音楽もできて、お年寄りのウケもよくて、若い人にも対応できる人をくれ』と。そんな人はいません(笑)」と。

  • 「そんな人いません(笑)」という最後の言葉を読んだ時、少しホッとした。結局自分たちはそのギャップを埋めていく努力を始めることは出来ても、それらすべてを「やれる」イメージはつかなかった。

  • 教会に限った話ではなく、現代社会自体が、即戦力、そつなくこなす人、様々な能力に長けていることを「普通」と言って、当たり前に求めるようになっているのかもしれない。そしてその「普通」からこぼれてしまうことが「生きにくさ」となっているのではないか。

  • 今日のテモテへの手紙が言うことは、自分をそのような「普通」から程遠く感じる人にとって、さらに追い詰める教えになっていないか。要は「いい人になりなさい」と聞こえる教えだが、貫き通すのは過酷なもの。

  • 「正義を求める」というのはどこまでやればいいのか。どこかで妥協し「仕方ない」と諦めてしまっているわたしたちがいる。

  • 忍耐すること、柔和でいることの困難さは日常的に出会う。以前いた教会で、自分とお連れ合い両方の親の介護と看取りを経験された方がおっしゃっていた。頭では、介護している親が、人が変わったように感情をコントロールできなくなるのは認知症のせいだと分かっていても、つい激昂したり泣いてしまう瞬間が何度もあったと。そんな時、「柔和」「忍耐」という聖書の言葉が目に入ると、なんだか怒りが湧いてしまったと。

  • 結局、そんな「いい人」になることなど出来ないと、わたしたちは結論付けている。どこかで「自分には無理」というラインを引いている。

「神の人よ」という呼びかけ

  • しかし、最初の語りかけが「神の人よ」となっていることに注目したい。「神の人」とは旧約で「神の僕」、「神の使者」を指す言葉。普通に捉えるなら、神から使命を持たされている人、神が送り出そうとしている人への呼びかけ。

  • この手紙はそもそも、「パウロが若い教職者であり自分の弟子であるテモテに対して書き送った手紙」という形式になっているが、実際はパウロからテモテ個人に送られた手紙であない。ずっと後の時代に、そういう体を取りつつ教会で読まれることを目的に書かれた手紙。

  • この手紙の本当の読者はテモテではなく、それよりずっと後の時代に、教会に集まる人たち。つまり、「神の人よ」と呼びかけられているのはテモテという体を取りつつ、この手紙の朗読を礼拝で聞く人々、わたしたちに対しても向けられている。

  • 「あなたはちゃんとした神の人となるために、これらのことをしなさい」と言っているのではなく、「あなたはもう神の人だ」という前提で「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」と言われている。

  • この勧めが「神の人よ」という呼びかけで始まっているのは、わたしたちは既に「神に用いられている者」「神に送り出されている者なのだ」という理解を呼び起こす。

  • 「わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい」というのは、いつかまた地上に来られる救い主を、わたしたちは大人しく待っているのではなく、わたしたちもまた働き手となるということ。

  • たしかにわたしたちは、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求める」ことも、「信仰の戦いを立派に戦い抜く」というのも、「おちどなく、非難されないように」生きるのも、「自分では」出来ないかもしれない。

  • しかし、イエスが天に上げられ、地上のわたしたちに見えない神の働きである聖霊を送っているということは、この方が「聖霊によって」、「わたしたちを通して」この世界に働きかけるということではないか。

いのちを得るということ

  • 今日の箇所で印象に残るのは、「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」という言葉。

  • いのちを得るとはどういうことか。旧約聖書の物語には、イスラエルの民が出エジプトをして長い放浪の旅をし、いよいよ神が与えると約束されたカナンの地へ入っていこうとする時、民を率いていたモーセが民に向かって神の言葉を語りかけるシーンがある。

  • 「見よ、わたしは今日、あなたたちが新しい約束の地へ入ろうとする時、命と死をあなたの前に置く。あなたは、そのどちらかを選ばなければならない。」

  • 「わたしは命と死をあなたの前に置く」というインパクトのある言葉。いのちとは何なのか。ここでの命とは、神の意志を行うこと。命とは、あなたの神、主を深く愛し、その意思と命に従って自分を形作っていくこと。それがいのちそのものだった。

  • テモテへの手紙の「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」とは、いつも神が今ここでなさろうとしているのはどういうことなのか考え、追い求め、行っていくことで、自分を形作っていくということ。

  • そしてそこには、見えない聖霊が共にあり、自分ではそのような生き方が出来ないわたしたちに、絶えず働きかけているのだと信じること。それが「いのちを得る」ということなのではないか。

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