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2024/05/19(日) ペンテコステ礼拝 宣教要旨

聖書:エゼキエル37:1-14/使徒言行録2:1-11

宣教:「帰省したらつい方言が出ちゃう」

賛美:343,81,29


ペンテコステ

  • 今日はキリスト教の暦で「聖霊降臨日」、または「ペンテコステ」と呼ばれる日。ペンテコステというのは「五十」という意味のギリシャ語から来ている。

  • この日はイスラエル人が、かつてエジプトの強制労働から脱出した出来事を祝う日から50日目に、神から律法を授与されたことを祝う祭り。元は大麦の借り入れ時期が終わり、小麦の借り入れを祝う日だったので「初穂の祭り」とか「七週祭」とも呼ばれた。

  • 同じく出エジプトの出来事を記念する過越祭、仮庵の祭りと並んでユダヤ教三大祭りの一つとも言われている。この三つの大きな祭りの日、離れた地に住むユダヤ人たちはエルサレムに巡礼する慣習があった。

  • 要はこの日、多くのユダヤ人がエルサレムに集まっている日だった。

  • 先々週、「昇天日」と呼ばれる日を迎えていたが、イエスは十字架にかけられ、死んで三日目に復活した後、弟子たちと共に40日間過ごされた後、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と言って天に上げられ、地上からいなくなっていた。

  • 弟子たちは、復活したイエスがこれからは一緒にいてくれると思っていただろうに、突然地上から救い主がいなくなって、途方にくれたのではないか。

  • 今自分たちがいるのは師であるイエスが十字架にかけられた町であり、その弟子である自分たちにとって危険な場所だった。イエスが天に上げられ、いなくなったことで、その危険はさらに深刻に感じられたはず。

  • しかし使徒言行録の弟子たちは、この危険な町、エルサレムに留まって過ごしていた。自分たちの故郷ガリラヤへ戻るのではなく、イエスに言われた通り、自分たちにはまだよくわからない、天からの力が降ってくるという時まで、この町に留まっていた。

  • つまり、一年で町が最も騒々しい日だった。様々な国からいろんな人々が集まり、居合わせる、なんとなく落ち着かない日。

激しい風、炎のような舌

  • イエスの弟子たちはこの日、一つになって集まっていた。すると突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、弟子たちのいる家中に響いた。

  • 聖霊の「霊」というのは聖書の言語で元は「風」を意味する単語だったが、まさに「風」が吹き付ける出来事だった。

  • そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上に留まった。「炎」というのは旧約で特に「聖なるもの」を表す表象でもあった。「聖なる」を意味する単語は元々炎と関係する語。

  • この物語は、まさに神の霊が一つになって集まっている弟子たち一人ひとりに現れたことを示す。印象的なのは弟子たち一人ひとりの上に留まったのは「炎のような舌」と言われていること。

  • 「舌」というのはわたしたちが話したり語ったりするのに必要な部位。そして、この聖霊に満たされた弟子たちは「霊が語らせるままに」「話し出す」ことになった。それも様々な国の言語で。

居合わせた人たち

  • ペンテコステというユダヤ教の重要な祭りの日に、神殿があるエルサレムに集まってきた人たちのほとんどは、ユダヤ教徒だった。

  • ユダヤ人だけでなく、ユダヤ教に改宗した異邦人、あるいは改修まではしていなくても普段はユダヤ教の会堂である各地のシナゴーグで、ユダヤ人の神を礼拝している外国人たち。

  • この日、エルサレムに集まっていたユダヤ人たちは、同じユダヤ人ではあっても、種々雑多な人たちだった。

  • 当時、ユダヤ人の中には飢饉や戦争の影響でイスラエルから離れ、遠い外国の地に移住してから数世代が経過している人たちがいた。そういった人たちは「離散の民」「ディアスポラ」と呼ばれた。

  • 彼らは生まれ育った故郷は外国の地でありながら、ユダヤ人の信仰を持つ人たち。重要な祭日が祝われる日には、年に一度、あるいは数年に一度、場合によっては一生に一回、エルサレムに巡礼しに来た。

  • だからこの日、エルサレムには様々な故郷で生まれ育ったユダヤ人が集っていた。パルティア、メディア、エラム、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人だけでなくユダヤ教への改宗者も、クレタ、アラビアから来た者もいた。

  • さらには時間的な次元を超えて居合わせた人々もいた。「メディアからの者たち」というのは本来ここに居るはずのない人々だった。歴史的にはもうこの時点では滅んでいた民族。その言葉を喋る人も聞き取る人も存在し得なかった。

  • 単純に、この出来事を書いた著者の時代錯誤だったのか、それとも、バラバラにされていたユダヤ人、神を信仰する人々が、歴史的な時間も人種や国も超えてこの出来事を体験したことを描きたかったのかもしれない。

  • なんにせよ当然居合わせた人々は驚く。エルサレムで聞けるはずのない自分たちの故郷の言葉で神の福音が話されるのを、それも学のないガリラヤ出身の人たちによって話されているのを聞いて。

自分の故郷の言葉/別の言葉

  • 「ほかの国々の言葉」と訳されている単語は、単純に「外国語」を意味する場合もあれば、「異言」という、一般の人には聞き慣れない言葉を意味する場合もある単語。

  • 「異言」とは日本語では文字通り「異なる言葉」と書くが、聖書の中では天使が話している言語とも言われる。

  • キリスト教初期の時代には、教会の集まりの中に時々、何を言っているかわからない言葉で祈ったり預言したりする人たちが現れ、またその人たちが何を言っているかを理解し、説明する人たちもいた様子が使徒言行録やパウロの手紙に出てくる。

  • 旧約の物語でも、預言者と呼ばれる人たちが時に恍惚状態、トランス状態になって、何か言っているが周りの人には何を言っているか分からないようなこともあったらしい。

  • 元々、ペンテコステの出来事というのは、実際にはこういうトランス状態で異言を話すような人たちの光景というのがあって、後に様々な国の言語で話しだしたというような意味付けがなされたのではないかと言われることもある。

  • それは結構異様な光景だったはず。実際、この後「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と反応する人たちがいたというのは、聞いたこともない異質な言葉が話される様子に対するものだったのかもしれない。

  • 一方で、外国から来た自分たちが、ここで聞くはずのない故郷の言葉をエルサレムで聞いた時、彼らはどんな思いになったのか。

  • エルサレムは自分が大切にする神のための神殿があり、信仰の故郷でありながら、自分自身は外国にルーツがある人たちにとって、この地、信仰の故郷であるエルサレムで、神の福音が、自分の生まれ育った故郷の言葉で語られるのを聞いた時、それは大きな衝撃と共に、心にスッと入ってくるものだったのではないか。

  • 私は元々九州で生まれ育って、中学3年生の時に愛知に引っ越し、高校までの4年間そこで過ごした。住んでいたのは愛知県の岡﨑市という場所で、いわゆる三河弁という方言が話される領域。

  • 最初の頃は鹿児島の最南端である指宿から引っ越したばかりで、周りとイントネーションが違うので面白がられたが、結局環境が変わるとだんだん住んでいる地に自分の言葉も馴染んでいく。

  • 三河弁は語尾に「じゃん」「だら」「りん」をつける独特な方言で、気づけば自分も友人同士の会話で使っていた。

  • とはいえ、たかだか4年しかいないこともあって大学生になり、関西に来ると、今度は神戸弁に影響されてくる。関西で自分の口から「じゃん」「だら」「りん」が出てくることなどまずなかった。

  • ところが、たまに帰省して岡﨑の友人に会うと、再会して少し会話している間に無意識に三河弁がよみがえる。

  • 関西人が人によっては関東に行くといつの間にか標準語で話すようになるものの、帰省した時や親との電話ですぐ関西弁に切り替わるなど、似たようなことを皆さんも体験するのではないか。

  • わたしの母は滋賀県出身だが、礼拝の司会などで緊張すると、素が出るのか聖書朗読が関西弁になる。わたしたちが使う言語というのは、わたしたちの奥深いところに染み付いているものなのだと実感する。

  • ペンテコステの日、自分自身の信仰のルーツの地でありながら、生まれ育った地から遠く離れたエルサレムに来ていたユダヤ人たちは、ここで自分自身の最も深いところに染み付いている言語で福音が語られるのを聞いた時、衝撃を受けたはず。

  • エルサレムに巡礼するということは、裏を返せば普段、生涯の大半は神殿のあるエルサレムに来ることが出来ないということ。神殿のない異邦の地で生活しているということ。だからこそ「この日はここで、神の住まいである神殿で礼拝しよう」と来た人たち。

  • ところが、外国の地、異邦の地である自分の故郷の言葉で神のことが語られた時、人々は外国の地、異邦の地で過ごす自分たちの日常の中に、神が働きかけてくることを知った。

  • これからはどんな場所にいようが、どんな時代に生きようが、神は自分たちの許に降ってきて共にいるのだと信頼できる。そういうメッセージを示されたのがペンテコステという出来事だったのではないか。

教会の誕生日

  • ペンテコステは、聖霊が降ったことでイエスの弟子たちによる宣教の働きが始まったため、「教会の誕生日」とも呼ばれる。

  • 地理的にも言語的にも場合によっては時代までバラバラな人たちが、それぞれ自分の故郷の言葉で神について語られるのを聞いて教会が始まった。

  • ということは、そもそも教会という交わりは、同じ神、救い主を信じながら、種々雑多な背景を持つ人たちの集まりなのだということ。

  • 今わたしたちは神戸市北区のあらゆるところから教会に帰って来た人たち。普段過ごす場所で、暮らしている環境で、置かれている人間関係の中で、神に向き合うなんて難しいと感じている者たちかもしれない。あるいは、そこに神は本当にいるのかと思うような場所に、普段佇んでいる者かもしれない。

  • しかし教会は、このような者たちに聖霊が働きかけ、いつ何時も共にいることが示されて始まった。わたしたちは今日、改めてこの出来事を心に留めて、それぞれの日常の生活の場へと送り出されていきたい。

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