聖書:列王記下2:1-15/ヨハネ7:32-39
宣教:「内側から湧き出る水」
賛美:546,337,29
救い主が見えない場所に行ってしまうということ
先週の木曜日はキリスト教の暦で「昇天日」という日だった。復活されたイエスが四十日弟子たちと共に過ごされた後、山に登り、弟子たちの見ている前で天に上げられた出来事を記念する日。
そして来週の日曜日、わたしたちは「聖霊降臨日/ペンテコステ」を迎える。この日は、見えない神の存在/働きである聖霊が弟子たちに降った出来事を記念する日。
弟子たちにとって、イエスの昇天は、救い主がせっかく復活したのに自分たちの許から離れ、見えない場所に行ってしまう出来事だった。
今日のヨハネ福音書7章のイエスのセリフは、十字架の死によって墓に入れられた後、復活して自分の遺体を見つけることはできなくなるということ、そして復活した後、ご自分が天に上げられ、弟子たちが来ることの出来ない場所に行ってしまうことを、前もって話していた場面。
ひととところに留まらない救い主
イエスは、「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることができない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と言った。
イースターの出来事を思い出してみると、その日の朝、イエスの遺体と相見えるために墓に行った女性たちも、弟子たちも、誰もイエスの遺体を見つけることができなかった。
イエスはすでに復活して起き上がり、墓を後にしていた。遺体の中にイエスを捜しても、この方は見つからなかった。
彼女たち、彼らがイエスを捜しても見つけられないのは、動かない遺体となって安置されていると思っていた救い主が、復活し、自由に動き回っておられたから。
そして、彼女ら彼らはイエスを見つけることが出来なくても、イエスの方から彼女らに声をかけ、姿を現されたのだった。
しかし、イースターの日、マグダラのマリアや女性たちの許に現れたイエスは、彼女たちのそばに留まってはいなかった。他の弟子たちにもご自分と出会ったことを知らせるように言って、イエスはまた姿を消してしまう。
その日、エルサレムから離れてエマオの村へ旅立つ二人の弟子の許にも現れたイエスは、二人としばらく語らい、夕食を共にするが、二人が目の前の人物はイエスだと気づいた瞬間、姿を消してしまった。
二人がエルサレムに戻ると、ペトロもその日イエスと出会っていたことが分かった。そして次の瞬間にはこれらの出来事を話している弟子たちの真ん中にイエスが現れていた。
こうしてイースターの出来事を思い起こすと、復活したイエスは、まさに神出鬼没といった形でひとところに留まらなかったことが分かる。
イースターの日、弟子たちがイエスを見つけられないということは、この方が死んで遺体のままでいるのではなく、復活して動き回っていたからであり、復活したイエスとの出会いを必要とする様々な人の許に訪れていたということだった。
「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない」というイエスの言葉は、わたしたちを落胆させる言葉として聞こえるかもしれない。しかし、イエスを、遺体の中や死者の思い出の中に見つけるよりずっと、わたしたちに希望を与える言葉なのではないか。
わたしたちが「救い主は今どこにいるのか」と問いたくなる時、自分では救い主の姿を見つけることが出来ない時、イエスは遺体のまま動かなくなっているのではなく、わたしたちが思ってもみないところで動き回っておられるのかもしれない。
そして、わたしたちが見つけられなくても、この方はいつも思いがけない形で立ち現れ、共にいてくださっているのではないか。
その人の内から生きた水が流れ出る
救い主が思いがけない形でわたしたちと共にいる、ということの一つが、来週迎えるペンテコステの出来事に示される聖霊の働き。
今日の箇所でイエスは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、(…)その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言う。
このときのイエスの言葉を、物語は「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」と説明している。
イエスが天に昇られた後、イエスが天から送る聖霊を受ける人たちは、「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」、つまり、“もう渇くことはなくなる”という。
聖霊というのは、わたしたちの目には見えない神の存在であり、働きだが、そう言われてもピンとこないかもしれない。しかし実は、聖書の中で「神から送られる霊」というのは色々なイメージで表現されている。
「霊」という言葉自体が旧約聖書のヘブライ語では「風」「息」を意味する単語。「風」のように、普段からわたしたちの身の回りを縦横無尽に動き回っているし、「息」のように、わたしたちが普段意識していなくても内側からわたしたちを生かす力であったりする。
「聖霊」という日本語の言葉や響きで、わたしたちは「幽霊」や「妖精」のような非日常的な存在や現象を思い浮かべてしまうかもしれない。しかし本来は「風」や「息」のような、わたしたちに外側からも内側からも働きかけ、日々生かしてくれる、最も身近に感じられる神の力、存在なのではないか。
そんな聖霊について、イエスは「その人の内から流れ出る生きた水」という、もう一つのイメージを与えてくれる。しかも「川となって流れ出る」という。
神から送られる聖霊について、わたしたち自身の呼吸から来る「息」や、わたしたちの内から流れ出る「水」のイメージで語られるのは、わたしたちを驚かせるかもしれない。
何かしらの「救い」を求める時、わたしたちは「神はどこにいるのか」と探し求めるが、自分自身の内から働きかけているなんて思いもしない。ところがイエスは、わたしたち自身の内側にも見えない神の働きがあることを見つめさせようとする。
すべてがうまくいっていない時、どうしようもない自分に打ちひしがれている時、自分の内から「生きた水が流れ出ている」なんて思えないかもしれない。
今日の物語の最後には、「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかった」と書かれている。それではイエスが“霊”を受ける「栄光を受ける時」とはいつなのかというと、ヨハネ福音書においてそれはイエスが十字架による死を迎えた時だった。
ヨハネ福音書では、イエスは力なく頭を垂れて息を引き取る時、一言「渇く」と言う。それはイエス自身が神を最も「渇き求め」、人々の救いを「渇き求め」た頂点の時だった。
不思議なことに福音書は、救い主イエスが最も弱くみじめになり、渇き求める姿になってこそ、この方はまさに神の栄光を受けたのだという理解を持っている。
わたしたちが、自分自身の限界やどうしようもなさを実感する、「渇き求める」瞬間にこそ、聖霊はわたしたちの内から働きかけているのだと、イエスは示してくれているのではないか。
流れ出ていく先
イエスを信じる人は「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」というが、「川となって流れ出る」ということは、生きた水がその人の内に留まるのではなく、外に溢れ出、流れ出ていくことを示している。
それは聖霊の働きがわたしたちを通して、わたしたちの繋がりを通して広がっていくということでもある。
わたしたちが自分自身に力なさを感じていても、こんなわたしたちの内から聖霊は働きかけ、こんなわたしたちを通して誰かの「渇き」を癒そうとする。わたしたちを通してもたらされる聖霊の働きは、きっとわたしたち自身の「渇き」も癒やすものとなる。