聖書:出エジプト33:7−11/ヨハネ16:25-33
宣教:「イエスの名によって共にいる」
賛美:206,481,29
顔と顔を合わせて
今日読んだ出エジプト記33章は、かつてモーセという人が、イスラエルの民と神との間に立って執り成しをしたことを伝えている。
神に何か伺いを立てたい者は宿営から離れた「臨在の幕屋」という場所にいるモーセを訪れ、モーセを通して神に伺いを立てていた。
モーセは幕屋の入口で顔と顔を合わせるようにして神と語り合ったという。モーセの時代には、そのように神と直接語り合うことが出来ていた。
新約の時代、イエスに従った弟子たちも、ある時期まではイエスと顔と顔を合わせてともに過ごすことが出来た。聞きたいことがあれば聞けたし、イエスから直接教えを受けたり、時には叱られたり呆れられたりする日常があった。
しかし現代、わたしたちはイエスと地上で遭遇することもなければ、神の声が直接頭の中に響くことも通常ない。
昇天日を覚えて
今週9日の木曜日は、キリスト教の暦で「昇天日」と呼ばれる日。この日イエスは弟子たちの見ている前で天に上げられ、雲の上に行って見えなくなった。弟子たちは地上に取り残されてしまう。
これは復活されたイエスと四十日間も過ごしていた弟子たちにとって、二度目の喪失と言えるような体験だったかもしれない。弟子たちはイエスが大祭司たちに捕まり、強引な裁判にかけられ、十字架刑に処され死んでしまった時、一度大きな喪失を経験していた。
死から蘇りせっかく姿を現してくれたイエスが、ずっと地上に留まってくれるわけではなく天に上げられていく様子を、弟子たちはどのような思いで見ていたのか。
今日の新約の箇所はイエスの「決別説教」または「告別説教」と呼ばれる場面。十字架にかけられる前、これから逮捕され、処刑されて死ぬことを分かっていたイエスは、この後地上に残される弟子たちのために語り始めた。
その時弟子たちは、まだイエスが死ぬことも、その後復活することも分かってかった。イエスはこれから弟子たちに迫る苦難を思い、彼ら彼女らの不安を取り除こうとする。
そして、イエスがいなくなることによる不安や苦難は、イエスが復活した後、天に上げられたことで、弟子たちにまた訪れることになった。今日の箇所の告別説教は、むしろイエス昇天後の弟子たちに向けられて語られている。
イエスの名によって願う
イエスが「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」と言っているのは、イエスが目の前からいなくなった時、弟子たちがどのように日々を過ごすことになるかを伝えている。
地上に生きる彼ら彼女らのそばにはもうイエスはいない。イエスに直接話しかけて答えてもらうことはできない。使徒言行録ではそんな中、イエスが天に上った後弟子たちは、「イエスの名によって」人々に福音を語り、「イエスの名によって」祈る姿が現れていく。
現在わたしたちが祈る時も、最後を「イエス・キリストの御名によって祈ります」と結ぶのは、このように祈るようイエスが弟子たちに伝えたことが聖書に書かれているから。
イエスの「わたしの名によって」という言い回しは、新約聖書のギリシャ語を直訳すると「わたしの名の中で」という表現。イエスが「今ここに」いて一体となっていること、まさに「今ここで」働きかけてくださっていることを思い起こす言葉。
たとえここにイエスの姿が見えなくても、天に上げられたイエスは、わたしたちがその名前を呼び、そのお名前によって祈ったり願ったりする時、共にいて働きかけてくださるのだということ。
先週わたしたちは、イエスが天に上げられる前、弟子たちにしばらく後に聖霊(「弁護者」「真理の霊」)を送ることを伝えた場面を思い起こした。
聖霊という存在は、地上に残された弟子たちが「本当に救い主は共におられるのか」と問いたくなる時にこそ思い起こす、目に見えない神の働きだった。
今日の箇所も、わたしたちが「イエスの名によって願う」時、たとえイエスの姿がそばになくても、この方が「今ここで」共にいて働きかけてくださっていることを思い起こさせる。
もはやたとえによらない
「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」と話す前、イエスは「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」と言っていた。
たしかにイエスは福音書において様々な「たとえ」を用いて話してきた。「良きサマリア人のたとえ」、「ぶどうの木と農夫のたとえ」、「わたしは命のパンである」「わたしは良い羊飼いである」というたとえ。
もはやそういった「たとえ」を用いなくなるというのは、弟子たちと直接そういった掛け合いをすることが出来なくなることと繋がっていた。イエスはもう地上にいないから、弟子たちはイエスに質問することもできなくなる。
しかし、この「たとえ」というのは「謎めいた言葉」とも訳せる言葉。普通「たとえ」を用いるのは話をわかりやすくしたり、伝えやすくするためだが、イエスの「たとえ」はいつも人々に「これはどういうことだろう?」と謎かけのように響いた。
イエスの「たとえ」を受け入れるには、「想像力」が必要になる。弟子たちも、敵対する人々も、これまでイエスの話に結構振り回されてきた。イエスは決して「一様に受け取れる」「単純明快な」「わかりやすい絶対的な教え」など語らなかったから。
イエスのたとえはいつも、「これはどういうことだろう?」「何を意味するのだろう?」と考え続けねばならないものだった。
しかし、イエスが人々に対して培おうとしたそのような「想像力」は、今の時代こそわたしたちを生かすものなのではないか。
イエスの姿が見えなくなった今、それでもわたしたちが「イエスの名によって」集まっている。
そして「イエスの名によって」何かを願い、祈る時というのは本来、イエスが「今ここに」おられるなら、「いったい何をしようとしておられるのだろう?」と、「想像力」を働かせることになる。
イエスが言った「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」とは、わたしたちが再来週記念するペンテコステの日、弟子たちのもとに聖霊が降ってきて彼らが語りだす出来事を指している。
この出来事から、「見えない」聖霊の働きが、いつもわたしたちの間に「ある」ことを、教会は思い起こし続けてきた。そして、「目に見えない」聖霊の働きに「想像力」を働かせてきた。
そう、「イエスの名によって」祈るということは、「なんで救ってくれないのか?」「なんでこんなことになるのか?」と、わかりやすい「答え」を求めるというより、「イエスは今ここで、いったい何をしようとしておられるのだろう?」という「想像力」を働かすこと。
イエスは、「わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」と言った。まるでわたしたちの「願い」や「必要」は、こちらから願うまでもなく神がもう知っている、というような口ぶり。
つまり、「イエスの名によって」願ったり祈ったりすることは、そのようなわたしたちの願いや必要を知っておられる神を信頼して、「神は(聖霊は)今、何をしようとしておられるのか」想像力を働かせることなのではないか。
神は、今、ここで
戦争が終わるどころか泥沼になっているウクライナとロシアの状況に対して、わたしたちは「神はなんでこんなことを許されるのか?」と、Q&Aのようなわかりやすい答えを求めるたくなる。
しかしそうではなく、「こんな状況の中で、神は今、何をしようとしておられるのだろう」と想像力を働かせる時、同時にわたしたちは今自分たちが何をすべきなのか、神は自分たちを通して何をしようとしておられるのか、視界から締め出していたものへ目を向けるのではないか。
困難な状況にある人をそばで見守るしかない状況に対して、「救い主は来てくださらないのか?」「なんで救ってくれないのか」と答えを求めたくなるかもしれない。
しかしそうではなく、「救い主は今、ここで、何をしようとしておられるのだろう」と探り求める時、わたしたちは何も変わっていないように見える状況の中に、実は一筋の光があることに気づくかもしれない。
今日のイエスの言葉の最後を心に留めたい。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」