聖書:エゼキエル36:24−28/ヨハネ15:18-27
宣教:「真理の霊が来るとき」
賛美:204,342,29
ペンテコステの出来事に向けて
今日は復活節第5主日。イエスの復活を記念するイースターから5週目の日曜日。この間わたしたちは、イエスが復活された後、様々な時、様々な場所で弟子たちに姿を現した話を思い起こしてきた。
しかしイエスは、復活してからずっと弟子たちと一緒に地上に居てくれたわけではなかった。
来週5月9日(木)は、キリスト教の暦で昇天日と呼ばれる日。復活された後、しばらく弟子たちと共に過ごされたイエスが、この日、皆の見ている前で天に上っていったという。
せっかく復活したイエスと共にこれから活動していくんだと思っていた弟子たちは、また置いていかれてしまう。
しかしイエスは彼らに、エルサレムに留まっているように伝えた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。(…)あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるから。」そう言ってイエスは天に上げられた。
「前に聖霊について話したでしょ」と言うわけだが、その「前にわたしから聞いた」と言っている場面が今日の箇所。
今日の箇所、イエスが十字架にかけられることになる前、イエスは弟子たちにこう話していた。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」
この場面では「弁護者」とか「真理の霊」と呼ぶ存在が、後にイエスが「聖霊」と呼ぶ存在。来月5月19日(日)は、その聖霊が約束された通りエルサレムに留まっていた弟子たちに下った出来事を記念する聖霊降臨日・ペンテコステを迎える。
「聖霊」というのは、わたしたちの間で自由に動き回り、働きかけてくる、見えない神の存在であり、働きのこと。
今日はイエスが、復活後に天に上げられ、弟子たちを地上に残していく前に、弟子たちを決して一人にしない、ある存在を送ることで、「あなたがたと共にいる」ことを約束したのだと、特に覚える日。
ピンとこないけど本当はいてほしい
今現在「聖霊という存在を感じたことがある」、「聖霊の働きを実感したことがある」、という人はあまりいないと思う。むしろ「聖霊って結局なんなんですか?」「聖書の神も、イエス・キリストもなんとなく受け入れられるんですけど、聖霊っていうのがよくわからなくて」という話をよく聞く。
目には見えない、風のように自由気ままに動き、わたしたちに働きかける存在、力と聞いてもピンとこないし、実感できない人がほとんどかもしれない。
むしろ多くの人が実感するのは、「神の不在」「救い主はどこにいるのか」という嘆きかもしれない。わたしたちの間にはいろいろな困難を抱えて日常を過ごす方々がおられる。
体の自由が効かなくなり、思うように教会に来られなくなった人、病と戦いながらこの先どうなるのか不安の内におられる人、職場やコミュニティでの人間関係に悩まされ、頭を抱えている人。「変わらない現実」、「救われない現実」の中でいっぱいいっぱいになる時、こんな状況の自分と「今、救い主が共にいる」なんて思えなくなる。
今まで何度かお話してきたように、わたし自身、自分にはどうしようもない、手に負えないと思う事柄を前にする度、「今、神がここに来て語ってくれたら」「今、イエス・キリストが現れて奇跡を起こしてくれたら」と何度も思ってきた。
しかし実際には、雷のような迫力で神が語りかけてくることも、イエスが姿を現して何かしてくれるようなこともなかった。その度に、ある種怒りのようなものがこみ上げる。
今日の箇所でイエスが「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」と言うのを聞いた時、わたしはイエスを憎んでいたのは自分ではないかと思った。
そしてまた、「この世がわたしを憎むなら」というのはどういう状況なのかを改めて考えさせられた。牧師として今まで様々な話を聞いたり相談を受けることがあったが、当人がいっぱいいっぱいの状況の中で、感情を抑えられずぶつけられることも少なくない。
ただ、その怒り、複雑な感情は、わたし自身に対してというよりも、どうして今の自分に救いはこないのか、神はいてくれないのかという、本当は救い主に対するやるせない感情だったのではないかと思う。
本当は神にいてほしい、救い主に共にいてほしい、そんな存在にピンとこないけど本当はいてほしいという切実な願い。
目には見えず、いるように思えないときこそ、共にいる方
そしてその感情はわたし自身、何度も救い主に向けてきたものだった。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」こう呼びかけるイエスは、ご自分を憎む人々にご自分がどのように働きかけたかを思い出してほしいのではないか。
これから天に上げられ、地上からいなくなるイエスは、多くの人が「救いなどない」、「救い主などいない」と思ってしまう状況の中で、「わたしにはあなたたちが必要だ」と弟子たちに語りかけているのではないか。
そしてイエスは、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさる」と言う。
「弁護者」「真理の霊」と呼ばれる「聖霊」は、神という存在が目には見えなくても、イエス・キリストが地上から天に上げられ、わたしたちのそばからいなくなっても、目に見えない形でたしかに「わたしたちと共にいる」存在。
つまり、今神を直接見ることは出来ない、イエスと実体をもって会えない、地上で過ごすわたしたちにとって、聖霊とは、それでも神は共にいるのだと信じるための、かけがえのない存在のはず。
イエスは、「共にいるようには思えない」「救いなどない」としか思えないような時こそ、「聖霊」という存在が、「真理の霊」が、「弁護者」が、共にいるのだと約束してくださっている。
聖霊を通してわたしたちを「同労者」にするイエス
イエスは、ご自分に憎しみを向け、ご自分の弟子となった者たちにも憎しみを向けてしまう世界に対して、なおも「証しをする」ように言う。実は救い主に「なぜ」「どうして」と憎しみを向ける世界こそ、救い主を必要としていることをわかっているから。
そしてそのために、ご自分が「友」と呼ぶ弟子たちが、この世のために必要だと知っている。
救いがあるのかわからなくなるような世界、日常の中で、それを証しするなんてわたしたちには荷が重いかもしれない。「神はいる」「救い主は共にいてくださっている」「救いはある」などということを迷いや葛藤もなく言うことなんてきっと出来ない。
しかし、葛藤しながらも救い主を信じて生きようとするわたしたちの間には、目に見えない神の働きである聖霊が共にいる。そして、語るべき言葉がわからない、本当にこれでいいのかわからないわたしたちが、それでも語り出し、行動する中で、共に働いてくださるはず。
たとえわたしたち自身が何か出来ているなどと思えなくても、そこにきっとある聖霊の働きを信じて、共に歩んでいきたい。