聖書:イザヤ61:1−3/ヨハネ21:1-14
宣教:「いつもとんでもないことをさせられる」
賛美:207,524,29
日常の生活が始まっていた
今日の話は、復活のイエスが弟子たちに姿を現す物語。彼らに現れたのは復活して三度目だった。
弟子たちがいたティベリアス湖畔というのは、ガリラヤ湖の別名。弟子たちはいつの間にか、イエスが処刑され、復活した地であるエルサレムから離れ、故郷の町までやって来ていた。
ヨハネ福音書では復活したイエスはしばらくエルサレムに留まっているようだが、他の福音書では天使が弟子たちに、復活したイエスに会うために、「ガリラヤ」へ行くように話している。
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ16:7)
ガリラヤというのは弟子たちが元々日常を過ごしていた場所。彼らはそこで漁師として生計を立てている時、イエスと出会い、弟子にされた。
ティベリアス湖畔、ガリラヤ湖へ「漁をしに行く」というペトロ。そこでは日常の生活が始まっていた。
今日の話は、そこにイエスが現れる。弟子たちはイエスだと気づかないが、夜通し漁をして何の成果も得られない自分たちを、イエスが岸辺で出迎えた。弟子たちが沿岸に戻ってきたらそこにいた。思えばいつも「先回り」していたイエス。
わたしたちは日曜日、こうして教会に礼拝しに来る。あるいはこの時間、離れた場所からこの場に集まる人たちと心を合わせようとする。救い主と出会おうとして。
しかし、ここから日常の生活に戻っていく時、救い主は実は先回りしてわたしたちを待ち構えているのかもしれない。思いがけない時、思いがけない場所、思いがけない存在となって。
心折れそうになる時
この物語には、生前イエスと共に過ごした弟子たちにとって、デジャ・ヴュに感じる要素が重なり合ってくる。
夜遅く、自分たちだけで船に乗り込み、漁に行く弟子たち。イースターを迎えてから既に2度イエスは復活した姿を現されていたが、この時は一緒にいなかった。
湖という場所で自分たちだけになる体験は、以前にも似たような場面があった。その時は先に船に乗って向こう岸に渡ろうとしていたが、一晩中強風に悩まされ、陸地に行けなかった。漕いでも漕いでも進めない、あの時も心が折れるような体験だった。
今回は、漁をしようとティベリアス湖畔で一晩中試みるも、網には何もかからない。元々漁師を生業としていたペトロやゼベダイの子たちだが、何をしようにも成果は上がらなかった。同じく心が折れそうになる体験と言える。
強風に悩まされたあの時は、イエスが湖の上を渡って歩いて来るという思いがけない形で現れていた。あの時弟子たちは「幽霊だ」と思い、イエス本人だと思わなかった。今回も、イエスは思いがけず現れるが、弟子たちは誰だか分からない。
あの時と違って今回は陸地からそこまで離れていなかった。沿岸からイエスは船の上の弟子たちに声をかける。
「五千人の給食」と今日の物語
「子たちよ、何か食べる物があるか」というイエスのセリフは、読者には聞き覚えがある。五千人に五つのパンと二匹の魚を分ける奇跡を起こされた時、イエスはまず弟子たちに聞いていた。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」
いずれの時もイエスは、彼らが食べ物を得られる状況ではないことをわかっていた。人里離れた場所にいたあの時は、近くにパン屋などなかったし、金もなかった。今回は一晩中試みても魚が網にかかる様子のない湖が広がっている。
イエスはいつも、弟子たちに無理難題を持ちかけているように見える。食べ物などどこにもない。弟子たちも「ありません」と答える。
するとイエスは、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言い切った。得体のしれない人物についさっきまで散々試みてきたことをもう一度やれと言われた弟子たちは、腹が立たなかったのだろうか。
しかし弟子たちは随分と素直に言われたとおりにする。そして次の瞬間、網を引き上げることが出来ないくらいに大量の魚がかかったのだった。弟子の一人は「主だ」と気付き、ペトロは裸同然の姿を恥じたのか湖に飛び込む。
思わず湖に飛び込むペトロの姿は、ここでイエスに出会うなどとは思いもしていなかったことを示す。そこは彼にとって日常の生活の領域であり、たった惨めな挫折を味わっている時だった。特別な場所でもなんでもなかった。
弟子たちは岸辺が近かったのでそのまま網を引いて陸地に上げた。
陸に上がると、炭火が起こしてあり、なぜかもう魚が焼かれており、パンもあった。「魚」に「パン」。「五つのパンと二匹の魚」の出来事が強烈に重なってくる。
あの時は「夕暮れ時」、五千人以上の人々にわずかなパンと魚で対処しなければならなかった。今回は逆に「朝早く」、大量の魚とパンを前にする少数の弟子たち。出来事が反転している。そしてイエスは「さあ来て、朝の食事をしなさい」と促す。
そしてイエスは「パンを取って弟子たちに与えられ」「魚も同じようにされた」。五千人に分け与えた時と同じ。パンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちに配った。イエスは明らかにあの出来事と重なり合うように振る舞っている。弟子たちもあの時のことを思い出したのではないか。
「わたしたちに」させようとする救い主
五千人の給食の時、「この人たちに食べさせるためには、どこでパンを買えばよいだろうか」と相談するイエスに、弟子たちは自分たちに出来うることなど何もないと思っていた。
逆に言えば、何も出来ないであろう自分自身に諦めている弟子たちに、イエスは構わず「どうしようか?」と持ちかけたのだった。まるで彼らならどうにかできると信じているかのように。
今回も、「何か食べる物があるか」と問いかけた時、「舟の右側に網を打ちなさい」と促した時、イエスは、彼らなら食べ物を用意できる、彼らなら網を打って魚を得られると先んじて信じていた。本人たちの「諦め」など意に介さず。
イエスはいつも、ご自分がなにかすごいことをしようとするよりも、「弟子たちに」とんでもないことをさせようとする。彼ら自身が「自分にはどうにもできない」と諦めきっている事柄を、「彼らはどうにかできる」と信頼して「さあ、やってみなさい」と促す。
わたしたちは今、あまりにも多くのことに諦めきっているかもしれない。終わらないロシアとウクライナの戦争、始まってしまったイスラエルとガザの戦争、悲惨な状況が変わらない軍事クーデター後のミャンマー、「台湾有事」と煽られ、各所に配備されていく武器と軍隊。政治的に後回しにされているように感じる能登半島の状況…。
わたし自身、今日常の生活の中でいつも頭を悩ましていることで言えば、兵庫教区の中で財政的な困難を抱える教会/伝道所の教師を支える謝儀保障制度が、事実上破綻しているという現状がある。
わたしも教区の中でなんとか出来ないかと色々動いているが、本当に思うようにはいかない。ともすると投げ出したくなる。自分には手に負えないと。教区内の110教会/伝道所全てが、共に痛みを負う覚悟をし、支え合い、補い合うというのは、様々な考え方がすれ違う中で所詮絵空事なのではないかと。
日常の生活の中で、疲弊しきったり、息切れしたり、うまくいかないことを繰り返して、わたしたちは湖に網を打ち続けるのを辞めてしまいたくなる。
今日の物語でハッとさせられるのは、イエスの言う通りにして弟子たちが大量の魚を得られたのと関係なしに、陸に上がってみたらそこにパンと魚が用意されていたこと。
「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われたイエスは、弟子たちにまず食べさせようとする。一晩中うまくいかない漁に疲れ切っていた弟子たちに、まずは食べさせ、力を得させようとする。
そしてそこには、弟子たちには食べ切れない量の魚が、弟子たち自身の手によって網の中にあった。だれかに分け与えないことには決して消費しきれないほどのもの。それはこれからイエスが弟子たちを送り出す前振りだったのかもしれない。
マタイ、マルコ、ルカ福音書で「人間を取る漁師にしよう」と言われたイエスの言葉も思い起こされる。「わたしは漁に行く」「わたしたちも一緒に行こう」と声を掛け合った弟子たちはどんな思いで船に乗ったのだろうか。
日常の生活の中に、復活の主は現れる。そしてその日常は、今までとは異なる日常となっていく。ペトロたちはもう、単に魚を取る漁師ではない。来週の箇所だが、この後イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」と繰り返しペトロに言う。
弟子たちは復活のイエスによって、誰かに「働きかける者」にされていく。それはきっと、わたしたちもそうなのだと思う。
体が言うことを効かなくなる、頭が回らなくなってくる、お金がない、秀でた能力がない、なんとかしたいと思う事柄の前に、自分はどう考えても無力に思えるわたしたちを、誰よりもまずイエスが信じてくださり、生きる糧を与えてくださっている。
わたしたちは今からそれぞれの日常の場へ、ガリラヤへ戻っていく。そこにはイエスが先回りして、わたしたちが思いがけず出会うのを待っておられる。イースターの季節を過ごす今、共にその恵みを信じて、送り出されたい。