聖書:出エジプト15:1−11/ヨハネ20:19-29
宣教:「さわらなくても見なくてもわかる」
賛美:321,76,29
「死」から出ていくイエスと、「死」の恐怖に覆われる弟子たち
先週は「イースターの朝」の出来事を思い起こした。マグダラのマリアが日曜日の朝早くイエスの墓を訪れると、墓を塞いでいた石は除けられ、イエスの遺体はなくなっていた。誰かに取り去られたのだと泣くマリアに、イエスが現れ、弟子たちのもとへ送り出した。
今日の物語は、「イースターの夕方」の話。マリアから話を聞いた弟子たちは、家に鍵をかけて閉じこもっていた。
マリアが復活したイエスと出会ったと話しても、確かめに行こうとする者はいなかった。
マリアの言うことを全く信じられなかったというより、イエスの処刑後、次は自分たちが標的になるのではないかという恐怖が、彼らを動けなくしていた。
「イースターの朝」の物語では、イエスが「死」を打ち破り、ご自分を「閉じ込めて」いた墓の岩を除けて、出ていかれた。「イースターの夜」、弟子たちは逆に、自分たちから「死の恐怖」の内にとどまり、自分たちを家の戸の内側に「閉じ込めて」いた。
救い主に合わせる顔がない
恐怖の要因は他にもあったかもしれない。もし本当にイエスが復活されたのだとしたら、イエスが捕まった時に逃げ出し、肝心な時に見捨ててしまった自分たちは、イエスからどう思われるだろうか。
イエスの反応は怒りかもしれないし失望かもしれない。弟子たちは、マリアの話を聞いて「もしかして」と思っても、復活の主に「合わせる顔がなかった」のかもしれない。
彼らは既に、自分自身に失望し、閉じこもるしかなかったのではないか。
家の戸に鍵をかける弟子たちが締め出していたのは、自分たちを狙うユダヤ人たちだけでなく、こんな自分たちには合わせる顔がないイエスその人だったかもしれない。もはや自分たちのことをイエスの「弟子」と名乗っていいかさえ曖昧だった。
“いつものように”出会いに来るイエス
しかし、鍵どころか扉さえも無視して、イエスはいきなり彼らの真ん中に立ち現れる。イエスと弟子たちの間を「隔てる」もの、関係を「切って」しまうものなど何もなかった。
イエスに合わせる顔がない、今までのような関係性でいられるはずがないと思っていた弟子たちに対して、イエス自身はこれまでと変わらず、ご自分の弟子として扱う。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言って。
恐怖に囚われ、自分自身に失望していた弟子たちは、イエスが開口一番「あなたがたに平和があるように」と言われたことで、本当に救われたのではないか。
イエスの口から出てきたのは自分たちへの怒りでも失望でも裁きの言葉でもなく、「平和」を願う挨拶だった。
ヘブライ語で「シャローム」という挨拶。ユダヤ人たちが日常的に交わしていた挨拶の言葉。「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」というように、イエスは何事もなかったように弟子たちに“いつもの言葉”をかけたのだった。
「死」の恐怖から「復活」の喜びへ
イエスは弟子たちに手と脇腹を見せる。そこには十字架に打たれた釘跡と、槍で突き刺された傷跡があった。その生々しい傷跡は、「紛れもなく十字架にかけられたわたしだ」と示す。
それは同時に救い主が、十字架にかけられ、惨めな死を与えられたことを示すもの。その傷跡は消えることなく、無かったことにはされない。そのような死を迎えた救い主が復活されたのだと示すもの。
「死」の恐怖に覆われ、自分自身に失望する惨めさの内にあった弟子たちは、そのような惨めな姿で「死」を破り、復活されたイエスと出会う。どうしようもない自分自身に打ちのめされていた弟子たちにとって、光が注がれた瞬間だったのではないか。
本当は信じたい
しかし、十二弟子の中でこの場に居合わせなかった者が一人だけいた。ディディモと呼ばれるトマスだった。他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは固く突き放すように言う。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
トマスは本当に全く信じていなかったのだろうか。朝にはマグダラのマリアが「わたしは主を見ました」と言い、夕方には他の弟子たちまで「わたしたちは主を見た」と言う。「にわかに信じられないけど、嘘をついているとも思えない」とは思わないのか。なぜ「決して信じない」と言い切るほど頑なになったのか。
そもそも、トマスはなぜイースターの夕方、他の弟子たちと共にいなかったのか。皆、命の危機を感じて家に鍵をかけ集まっているのに、なぜ外をほっつき歩いていたのか。
危険を顧みず出かけていたことを考えてみると、もしかしてトマスは朝、マグダラのマリアが「わたしは主を見ました」と言い、ペトロともう一人の弟子も「墓に遺体は無かった」と言うのを聞いて、確かめに行っていたのではないか。
本当は「信じられないけど、万が一、もしかして…」と思い、墓にいないイエスを探し回っていたのではないか。
他の弟子たちは籠城する中、一筋の光があるのかもしれないと、探し求めずにはいられなかった。他の弟子たちはユダヤ人に恐怖し、自分自身に失望し、復活の主に合わせる顔などない中、トマスは会えるものなら会いたいと出歩かずにいられない。
イエスの傷跡に「触れてみなければ決して信じない」と強調したのは、むしろ「本当に復活してくださっていたら」と思ったからなのかもしれない。
心のどこかで「復活されたイエスに触れることができるなら」と希望を抱いたからこそ、口をついて出た言葉なのかもしれない。
実際、この物語の結末で、トマスは最後までイエスの傷跡に手をいれることはない。イエスがやっと、自分にも姿を現した瞬間、「わたしの主、わたしの神よ」と言っている。本当は、触れる前から既に、信じようとしていたから。信じたかったから。
目には見えないわたしの主、わたしの神
「触ってみなければ決して信じない」というトマスの言葉は、現代のわたしたちで言えば、「(神/イエスを)この目で見ない限り、決して信じない」という言葉なのではないか。
あるいはそれは、「いったいこの世界のどこに、救い主はいるというのか」という言葉かもしれない。「キリストがここにいるというなら、なぜこんなにも苦しみが続くのか」という言葉かもしれない。
実はそのどれもが、本当は「救い主にここにいてほしい」という思いからくる言葉なのだと思う。
本当は「確信したい」からこそ、「この苦しみが取り去られなければ、わたしは決して信じない」と言うほどに必死になるし、「信じられないけど、もしいてくれるのなら…」という思いがあるからこそ、何らかの術で確信したくなる。
イエスがトマスに言った、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という言葉は、本当は信じたくてたまらないわたしたちの苦しみを知っているからこそ、その苦しみから解き放たれてほしいと願う救い主の言葉なのではないか。
イエスから現れる
墓の外で一人泣いていたマグダラのマリアも、家に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちも、危険を顧みず外に出かけたトマスも、復活したイエスと出会うのは、イエスの方から現れ、語りかけた時だった。
救い主が取り去られたと泣くマリアは、墓という的はずれな場所を探していたし、他の弟子たちは探すどころか引きこもっていた。トマスは探し回るけれど見つけられず、確信も得られず、悶々としていた。
それぞれに復活のイエスとの出会いを必要としながら、自分から探し求めて出会うことは出来なかった。むしろ復活の主は、誰もが思いがけない時、思いがけない場所でご自分から姿を表し、声をかけてきた。
今を生きるわたしたちにとっても、復活されたイエスは、そのような方なのではないか。わたしたちが必死の思いで求めても、いっこうに来てくださらないように感じられ、どんなに語りかけても、声が聞こえてくるわけではない。
ところが、わかりやすい幻を見たわけでも、雷のような声を聞いたわけでもないのに、救い主が共にいて働きかけてくださっているのを、不意に信じられる時がある。
それは、自分の周りからみんな離れていくように感じられ、結局自分は一人なのだと思っていたのに、実は一人などでは決してなく、むしろ一人になろうとする自分を色んな人が放っておかなかったことを知る時かもしれない。鍵をかけているはずなのに、救い主は意に介さず入ってくる。
それは、自分にとって頼りない存在が、余計なお世話を焼いてくれる時かもしれない。自分を助けられるとは思えない人が、かっこ悪い姿で、手の釘跡を隠すことなく、脇腹の傷をさらしながら、「あなたに平和があるように」といつものように挨拶してくる。
復活のイエスは、今もわたしたちに、思いがけない姿で、思いがけない時に、思いがけない存在となって立ち現れ、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけてくださる。
現代のわたしたちは、イエスを直接見て、触って、確かめることはできない。しかし、そのようなことをしなくても、「本当は信じたい」わたしたちが「信じられる」ように、今もイエスの方からわたしたちに出会い続けておられるのだと思い起こし続けたい。
そしてわたしたちもまた、復活のイエスが立ち現れる時、思いがけず用いられる者として、ここから送り出されるよう共に祈りたい。