聖書:イザヤ55:1−11/ヨハネ20:1-18
宣教:「わたしの主が取り去られた」
賛美:208,333,29
形から入るイースターの喜び
今日は十字架にかかって死なれたイエスが、三日目に復活されたことを記念する、イースターの礼拝。
最近はスーパーでも「イースターエッグ」という名前で卵が売られていたり、イースターにちなんだお菓子が店頭に並んだり、世間でもイースターという行事が認知されるようになってきた。
一昨日あたりから気候も一気に暖かくなり、ちょうど春の到来の喜びが、キリストの復活を祝う喜びと重なる。
特に昨日までの受難節、十字架の死へと進まれるイエスの苦しみを覚えて、何かを節制して過ごした方もおられるかもしれない。伝統的には肉食を絶ったり、お酒を絶ったりして、イエスの受難を覚えるということが行われてきた。
我が家でも、この期間は禁酒して過ごすので、今日は色んな意味で心が高揚している。
今朝は毎週水曜日のオープンチャーチに来てくれている子どもたちに呼びかけて、イースターの卵探しをした。子どもたちからすれば「宝探し」。ダミーの卵を見つけたら、お菓子と交換してもらえる。
探す子どもたちも楽しいかも知れないが、準備したり隠したりする大人の方も結構ワクワクする。「イースターというのは、なんだかワクワクする、喜び祝う日なんだ」というのが、ある意味形から入ってくる。
逆に言えば、「救い主が復活した」ということを聞いても、普通はピンとこない。それを喜んで祝えるかというと、本来は「一体何を言っているのだ」と戸惑うに違いないことが、イースターに覚える出来事。
イースターになぜ卵探しをしたり、飾ったりするのかというのは、古くから様々な伝承があるが、イエスが死を打ち破って復活され、墓石を破って出てこられたことを、鳥の雛が卵を割って出てくることと重ね合わせて理解される。
今日読んだ物語は、イエスが十字架にかけられて死に、墓に入れられて三日目、マグダラのマリアという女性が墓参りに行ってみたら、墓を封じていた巨大な石が破られていたところから物語が始まる。(卵の殻は既に割れていた。)
もしもゆで卵の殻が割れていたら
イエスが葬られていた墓は、崖の横に空いた洞穴のような空間に遺体を葬る形のもので、墓の入口は男数人がかりで動かせる巨大な岩で閉じられていた。その岩が取りのけてあるのを見たマリアは、すぐさまペトロたちのところへ走っていった。
見た瞬間にマリアは、イエスの遺体が誰かに持ち去られたと思った。息も絶え絶えにマリアが話すと、ペトロともう一人の弟子は走って確かめに行き、実際に墓が空になっているのを見た。
それで二人とも、マリアが言った「主が墓から取り去られた」というのは本当だと信じた。
しかし興味なことに、墓の中にはイエスの遺体を包んであった亜麻布と、頭を包んでいた覆いが離れた場所に丸めてあった。遺体を持ち去るなら包んだまま持っていくはずなのに。
ペトロともう一人の弟子も、マグダラのマリアも、それが何を意味するのか考えることが出来ない。イエスの遺体が持ち去られたのではなく、自ら動き出し、自分の体を包んでいた覆いを取りのけたなんて思い浮かばない。
ゆで卵の殻が割れているのを見て、ヒヨコが中から出てきただなんて思わないように。死んだはずのイエスが墓を出ていかれたなんて思い至らない。
わたしの主が取り去られたということ
ペトロともう一人の弟子が墓の中を確かめ、帰っていく中、マリアは墓の外に立って泣いていた。
彼女は、実はまだ墓の中を覗き込んでいなかった。墓から石が取りのけてあるのを見て、誰かが遺体を持ち去ったのだと思い込み、たしかめもせずにペトロたちに告げたのだった。実際男たちが見たら墓の中は空だったけど、マリア自身は、まだ見ていなかった。
「わたしの主が取り去られた。どこに置かれているのか分からない」と嘆きながら、マリアはしばらく、墓の中を覗くことも、遺体を持ち去った人間の痕跡を調べることもしなかった。
というよりは探しに行けなかったのかもしれない。もう動かなくなったイエスの遺体を改めて確認するなど、体が受け付けなかったのかもしれない。それは自分が慕い求めてきた救い主の死を、改めて突きつけられることだった。
金曜日、イエスが死なれ、十字架を降ろされてから、イエスの遺体はすぐ墓に入れられてしまっていた。ユダヤ人が働くことを禁じられ、自由に動き回ることを制限される安息日が日没と共に始まろうとしていたから。
イエスが十字架の上で息を引き取る時、そばで眺めていたマリアは、安息日である土曜日の間、墓に入れられたイエスのそばに行くことができなかった。安息日が明け、まだ暗いうちから墓に行ったマリアは、一刻も早くイエスのそばにいたかったはず。
一方で、イエスの遺体を間近で見るということは、心引き裂かれることだったはず。彼女はなかなか墓の中を確かめられないし、遺体を探しに行くことも出来ない。ジレンマが襲っていた。しかしとうとう、墓を覗き込む。
このシーンを読む時、度々色んな方から受けてきた問いかけを思い出す。「救い主はどこにいるというのか?」という問いかけ。コロナ禍において、戦争が勃発する状況において、理不尽な事柄に見舞われる人の状況において、何度も「神はいるのか」「救い主はいるのか」と問われることがあった。
この問いかけは、文脈だけ見れば「疑問文」というより「反語文」。「質問」というより「説得」、「論破」に近いもの。「いやいない、救い主などいるわけない」という答えを背後に持つから出てくる問いかけ。
一方で、なぜわざわざ教会の牧師に問いかけてくるのか考えさせられる。牧師に聞いて「そうですね」と言うわけないのに。「救い主などいない」という答えを持ちながら、それを覆す、納得させてくれる答えがあればいいのにと期待しているような問い。
仮に、「たしかに神も仏もありませんね。救い主などいないのかもしれません」と答えたとしても、相手はそれで得意げになることも、満足することもないだろうと思う。本当はいてほしいから。
マリアの嘆きは、まるで現代のわたしたちが持つこのような問いに重なってくるように感じる。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」まさに現代のわたしたちの内にある問いなのではないか。
イエスはなぜ墓にいないのか
マリアがやっと墓を覗き込むと、そこには「白い衣を着た二人の天使」がいた。天使といっても、キリスト教絵画に描かれるようにわかりやすい翼があるわけではなく、聖書では普通の人間と同じ姿をしている。
とはいえ、このタイミングで墓の中に二人の人がいるというのは、かなり怪しい状況。しかしマリアは怪しむこともなく「婦人よ、なぜ泣いているのか」という質問に答える。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
誰かが遺体を取り去ったのだとしたら最も怪しく思われる二人を、マリアは疑わない。そしてなぜか、二人に対して後ろを振り向く。墓の入口の方を。そこにはイエスが立っていた。しかしマリアはイエスだと分からない。
イエスもまた、天使と同じことを問いかける。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」イエスを園丁だと思い込むマリアは、遺体を持ち去ったのはあなたではないかとさえ疑う。
この物語の中でマリアはイエスが「どこに置かれているのか」三回も聞いている。わたしたちが「救い主はどこにおられるのか」問う時も、まるで死体のような、動き回ることのない存在しか思い描けないのかもしれない。
マリアが無くなったことを嘆き、捜しているのはあくまでも「遺体」だった。イエスが生き返って戻ってくるなんて、願うこともできなかった。それは起こるはずないことだったから。
だからマリアが願うのは自分が遺体を引き取ること。もうどこかへ行ってしまわないように。もう一度墓に収めるために。
しかし本当は、「主は取り去られた」のではなく、「墓を出て行かれた」のだった。イエス自身が動き回り、墓という場所に留まらなかった。誰かがゆで卵を割ったのではなく、卵の中から新しい命が出てきて、動き回っているのだった。それもマリアのすぐそばで。
振り向かせ、気づかせ、送り出すイエス
最初、天使と同じく「婦人よ」という距離を感じる呼びかけをしたイエスは、園丁だと思い込み、気付く様子のないマリアに、今度は「マリア」と呼びかける。マリアが気づかないまま立ち去るようなことには決してしない。
この物語の中で「マリアはイエスだと気付いた」と書かれてはいない。しかし、イエスの「マリア」という呼びかけに、マリアは「ラボニ」と応える。「先生」という意味のヘブライ語。マリアは、この人は自分が「先生」と呼び慕ってきたイエスだと気づいた。
マリアが復活したイエスと出会う時、その方がイエスだと分かる時、マリアは繰り返し「振り返る」様子がある。後ろを「振り向く」とイエスがおり、「マリア」と呼びかけられると「振り向いて」、「先生」と呼び返した。
それは死を見つめる墓の奥底ではなく、墓の入口に向かって「振り向いた」時だった。イエスがおられるのは、マリアがこれから出て行き、過ごしていく日常の生活の中だった。
イエスが「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言ったのは、マリアが既にすがりついていたからなのか、今まさにすがりつこうとしていたからなのか。いずれにせよイエスは留める。
「すがりつく」という行為は、「その場に留まらせる」、自分のもとから離れていかないよう「引き留める」イメージ。しかしイエスは「これから父のもとへ行く」「あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と言い、他の弟子たちにそう伝えなさいと言う。
マリアはもう、イエスを自分の目の届く場所に留めようとはしなかった。イエスの遺体が手元に置いてあるより、復活されたイエスが天と地を自由に動き回られることの方が、ずっと希望のあることだった。
わたしたちが「救い主はどこにいるのか」「わたしの主は取り去られた」と思う時、覆しようのない死の力を見つめているのかもしれない。しかし、「墓」という絶望の中で、痛みの中で、諦めの中で、「振り返った」時、そこには「なぜ泣いているのか」と問いかける救い主がいるかもしれない。
救い主はきっとわたしたちを、「何もかも終わった」と思わせる力から、死の支配から、わたしたちを振り向かせようと、語りかけ続けておられるのではないか。
マリアはもはや、墓の外に留まらず、弟子たちのところへ出かけていく。そして「わたしは主を見ました」と告げ、遺体ではない、生きて立ち働かれるイエスの業を弟子たちに伝える。ここから出かけていくわたしたちも、生きて立ち働かれるイエスに振り向き続けたい。