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執筆者の写真鈴蘭台教会 日本基督教団

2024/03/24(日) 受難節第6主日礼拝 宣教要旨

聖書:創世記22:1−8/ヨハネ18:15-27

宣教:「あなたは後でついてくる」

賛美:306,463,29


受難週

  • 今日は「受難節」に入って6回目の日曜日。イエスが十字架の死に向かって進んでいかれた苦しみを覚える「受難節」の中でも、今日から復活日(イースター)前夜までの一週間を「受難週」と言う。

  • 今週の木曜日は「洗足木曜日」と呼ばれる日。イエスが弟子たちと最後の晩餐を共にし、逮捕された日。その晩餐の席でイエスは、弟子たちの足を洗って回った。当時は奴隷の役割だったので、弟子たちはイエスの行為に理解が追いつかず、「ついていけない」様子だった。

  • 今週の金曜日は「受難日」と呼ぶ日。イエスが十字架にかかって死なれた日。弟子の一人に裏切られて逮捕され、その際に他の弟子たちも散り散りに逃げ出してしまった。だれもイエスに「ついていけない」のだった。

  • 翌日土曜日は安息日だったので、イエスの遺体は急いで埋葬された。ろくに最後の別れも出来ず、せめて遺体の処置だけでもと思う女性たちは、律法の規定に縛られて何も出来ない時間を過ごした。

  • 男の弟子たちはいつ自分の身に危険が及ぶとも知れない恐怖によって、女性たちは安息日違反になってしまう状況によって、イエスが死んだ後もすぐそばに行くことが出来ず、最後まで「ついていく」ことが出来なかった。

  • このように、「受難週」は誰もイエスに「最後までついていくこと」が出来なかった物語を思い起こし、イースターまでの日を過ごす。

  • 今日は、受難節の中でも最も暗い雰囲気に包まれる日曜日。失望され、裏切られ、見捨てられ、嘲笑され、死に向かっていくイエスの苦しみを覚える日。

  • 一方で、イエスに失望した人、裏切った人、見捨てた人、嘲笑した人々の中に、わたしたち自身がいることを思い起こす日でもある。肝心な時にイエスに「ついていけなかった」人、離れてしまった人たちの物語を思い起こす。

「ついて行っている」つもりだった

  • 今日の物語冒頭、「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った」で始まる。注目してほしいのは「イエスに従った」という言葉。

  • 他の福音書では、イエス逮捕の際、弟子たちは散り散りになって逃げてしまったと書かれているが、ヨハネ福音書には実はその記述はない。まがりなりにも二人の弟子はイエスの後にまだ「従って」いた。

  • イエスは逮捕される時、ペトロは大祭司の手下に切りかかって耳を切り落とすし、イエスが大祭司のところへ連行される時もこうして後をついてきた。

  • ペトロはたしかにイエスに「ついてきて」いた。イエスが捕まった後、遠くへ逃亡するのではなく、身の危険を犯してちゃんと後をついてきていた。

  • 門番の女から、「あなたもイエスの弟子の一人ではないか」と聞かれた時、ペトロが「違う」と言ったのは、自然に出た言葉だったかもしれない。ここで「そうだ」と答えて自分も捕まれば、イエスの後を追って様子を伺うことはできない。

  • ペトロはイエスを心配して「ついてきた」のであり、どうにかしてイエスの様子を知りたいと考えていたはず。今はただただ、大祭司の屋敷の中にいるイエスがどうなっているのかで頭がいっぱいだった。

  • しばらくしてもう一度、他の人々からも「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と聞かれると、ペトロはまた「違う」と言う。一回目と同じくそっけない響き。

  • 他の福音書では絡んでくる女中に対し、ペトロは「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と饒舌に否定したり、最後には「呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と誓って」いた。

  • しかし、ヨハネ福音書のペトロは「あなたはイエスの弟子ではないか」という問いに対して、「違う」という言葉だけを淡々と繰り返す。ごまかそうと必死になっている様子はあまり見られない。

  • もしかしたら「どうすれば奥にいるイエスの様子がわかるか」考えていたかもしれないし、「なんとかして助ける方法はないか」考えていたかもしれない。ほとんど条件反射のように否定していたのではないか。

  • ペトロは今、この後もどうやってイエスに「ついていくこと」が出来るかで頭がいっぱいだったのかもしれない。

本当は「ついて行けなかった」

  • ところが、三回目は「違う」という返事さえしたかどうかもわからない、「ペトロは、再び打ち消した」としか書かれないような曖昧な反応を返した時、唐突に鶏が鳴いた。

  • それはペトロにとって特別なしるしだった。

  • ヨハネ福音書13章36節以下で、イエスはペトロに言っていた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」

  • ペトロはこの時、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と言い、実際今日の物語においても命の危険を犯してイエスの後に従っていた。

  • しかし、イエスは予告していた。「わたしのために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

  • たった今鶏が鳴いたことで、ペトロはイエスとのこの会話を思い出したはず。そして、おそらく呆然としたのではないか。

  • 実際には、ペトロは「知らない」とは言っていない。ヨハネ福音書でも今日の箇所の表題には「ペトロ、イエスを知らないと言う」と付されているが、実際にペトロが言ったのは「お前もあの男の弟子か」という問いへの「違う」という答えで、最後には答えたかどうかも曖昧な反応だった。

  • 鶏が鳴いた時、ペトロがどんな感情になったのか、どんな反応をしたのか、ヨハネ福音書は何も残していない。この福音書より早くに書かれた他の福音書では、イエスの言葉を思い出して泣きながら崩れ落ちる様子が書かれていた。

  • ヨハネ福音書では、ペトロの反応が何も書かれないことによって、この物語を聞くわたしたちの想像力が総動員される。

  • まさか、たった今自分は「イエスについていくこと」が出来なかったのか。ここまで「従って」きたのに?身の危険を犯して大祭司の屋敷の中庭にまで潜入しているのに?

  • 鶏が鳴いたことで分かるただ一つ確かなことは、イエスに「ついていくこと」は、自分にはどうやら出来なかったということだった。今自分がしていることは、「ついていっている」わけではないということだった。

イエスに「ついていく」ということ

  • それでは、本当に「ついていく」とはどういうことだったのか。

  • ペトロはおそらく、自分が救い主だと信じるイエスが、ここで最後を迎えるなどと思ってもいなかった。身の危険を犯してまでここについてきたのは、この状況を打開するチャンスを掴むため。あるいはイエスがこの状況を切り抜ける時も一緒にいるためだったかもしれない。

  • ペトロは、大祭司たちがイエスのいのちを奪おうとしていることは、これまでの経緯から感じ取っていたはず。それでも彼らの懐に入り込んだということは、死ぬことも覚悟の上だったのではないか。

  • ただしそれは、イエスが救い主として、いよいよ何かしでかしてくれることを期待してのことだった。

  • 政治と癒着し、堕落しきった神殿体制をひっくり返すようなこと。ユダヤを抑圧しているローマの支配を崩壊させるようなこと。金持ちを転落させ、貧しい人々が高くあげられるようなことが起きると信じてのことだった。

  • ペトロは本気で、そのためなら自分が死ぬことも厭わなかったのかもしれない。

  • しかし、今イエスが進んでいっている先にあるのは単純な「死」だった。何か大きな結果を残すわけでもなく、英雄として華々しく散って砕けるようなものでもない。冤罪で反逆者として磔にされ、手も足も出ずに終わる惨めな「死」だった。それはペトロが「ついていきたい」ものではなかった。

  • 鶏の鳴き声が響き渡って、自分が三度イエスを「知らない」と言ったのだと気付かされた時、ペトロはやっと、イエスは本当に殺されようとしていることを理解したのではないか。

  • この後ペトロは、ヨハネ福音書の中でイースターまで姿を現さない。ヨハネ福音書ではここからかなり分量を割いてイエスの死までの様子を描く。にもかかわらずペトロは表舞台に全く出てこない。どうも、閉じこもっているよう。

  • それは、イエスの弟子だということで迫りくる危険への恐怖によるものだけではなく、心が折れてしまったのではないか。自分が期待したものは何も起こらないのだと思って。正義の鉄槌も、革命もなく、天の軍勢が降りてくるようなこともないと思って。

  • 同時に、本当に自分は何も出来ない、どうしようもないのだと分かって。慕ってきたイエスの処刑に対し、成すすべもない。「十字架にかけろ!」と叫ぶ群衆に向かって反対を唱える勇気もない。

  • ペトロが大祭司の屋敷の中庭までは侵入できても、イエスの十字架刑の場には立ち会えず、引きこもっていたのは、十字架にかかるイエスの姿を直視できなかったからではないか。

  • そこにあるのは自分が期待した救い主の姿ではなく、成すすべもなく、何も出来ない自分と同じような姿になって磔にされた救い主の姿だったから。十字架にかかる救い主と相対するには、本当の自分の姿を直視しなければならなかった。

  • 一方で、今は閉じこもって自分と向き合わないといけない、そんなペトロを「待っている」方がいた。

  • ペトロが離反することを予告した時、イエスは「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言っていた。ペトロが肝心な時にいなくなることを知っていて、死に際にさえ取り返しのつかない大遅刻をすると分かっていて、イエスは死後も「待ち続ける」ことをペトロに言っていたのだ。

  • 「あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」イエスのこの言葉は、受難週を過ごすわたしたちにも響いてくる。

  • 今、わたしたちは、何か大きな力によって状況が変えられることを期待せずにいられない。逆に言えば、世界の状況に対して、この国の現状に対して、自分たちを巡る事態に対して、何をしてもどうしようもない、成すすべがない、何も出来ない自分たちがいる。

  • そして、そんなわたしたちはおそらく、十字架の死に向かって進んでいくイエスに「ついて行けない」。十字架にかかって何もできない救い主の姿など、今見たくもない。

  • ところが、そんな何も出来ない姿を貫き、三日後に復活されるイエスは、わたしたちが自分自身と向き合う力を与え、待っていてくださる。

  • そしてわたしたちは、何も出来ない姿を持つ者を、神は思いがけず生かし、用いてくださることを信じる道へと招かれている。

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