聖書:イザヤ63:1−9/ヨハネ12:20-36
宣教:「もうすぐいなくなるけれど」
賛美:296,443,29
様々な「終わり」を意識する時期
3月も半ばに入り、わたしたちは年度終わりの時期を迎えている。
先週はチャプレンとして関わっている幼稚園の卒園式があった。キリスト教主義の幼稚園で三年間過ごしてきた子らが、それぞれ地域の小学校へ入学していく。
毎回卒園式では同じ聖句の言葉で送り出す。詩編121編の「あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように」という言葉。
幼稚園で毎週あった礼拝の時間は、子どもたちが入学していく各々の小学校にはおそらくない。賛美歌をうたったり、お祈りしたり、聖書のお話を聞く機会というのは、教会に行っているわけでなければほぼなくなる。
そういう意味で、卒園は神様について触れる機会が一旦「終わる」ことを意味する。一方で、幼稚園を出てこれまで以上にたくさんの人と出会っていく中で、人と人との間に立ち働かれる神との出会いが豊かにあるようにという思いで送り出す式だった。
「終わり」と「始まり」を意識する時期である今日、わたしたちに与えられたのは、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という聖句。
「死」というのは究極の「終わり」。死ねばすべてが終わってしまう。
人生の絶頂で死に向かって進むイエス
イエスは救い主として地上に来られ、エルサレムで一瞬華々しいスタートを切った。ユダヤ人が集まる中心地エルサレムに入ると、大いに歓迎された。人々は手を上げ、叫んでくれた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」
自分たちの窮状を救うメシアを待っていたユダヤ人だけでなく、そこに居合わせたギリシア人たちまでもがイエスを捜し求めてきた。
人々の期待は絶頂に達している。イエスに従ってきた弟子たちにしてみれば、いよいよイエスが何かされる時なのだと思われる。
ところが、この大盛りあがりの中でイエスはいち早く「終わり」に向かって歩き出した。これから十字架にかけられて死ぬことをはっきり意識し出す。すべての終わりに向かって、自分から転げ落ち始めた。
人々はイエスが神の子として、エルサレムでいよいよ何かされるのだと期待してついて行こうとするが、イエス自身は自分の生涯を終わらせる処刑場へ向かっていく。
物語を読み進めると、ここから人々の間に広がっていた期待は徐々に下がり始め、最終的に政治犯への憎悪に変わり果てる。安息日に神殿で行ってきた癒やしも奇跡も、まるで無かったかのように忘れられ、単なる扇動者として扱われる。
一人また一人と加わってきた弟子たちは、じわじわと、最後には一瞬で散り散りになり、誰一人としてそばに残らない。
イエスが受け入れた「死」とはそういうものだった。有意義なものでも、英雄視されるものでもなく、ただただ虚無をもたらす惨めな最後だった。
それでも進もうとする人
そのような死に向かって進もうとする時、イエスも何度か立ち止まらずにはいられなかった。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」と心の内をさらしている。他の福音書では「父よ、この杯をできることなら取り除いてください」と祈る。
一方ですぐに「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」と言う。他の福音書では「しかし、御心のままになりますように」と言う。「何も出来ない姿で死を迎える」という「終わり」を見つめた上で、それでももう一度進み始める。
「終わり」を意識する時、わたしたちは立ち止まりたくなる。「終わり」に向かって進みゆくよりは、ここらへんで立ち止まってしまう方が、幾分マシに思えて。
わたしの連れ合いが牧会している教会は、コロナ禍と高齢化の波の中で、元々少なかった礼拝出席者が著しく減少した。会堂と牧師館は老朽化しており、一つの教会として成り立っていくのにこのままだと限界が迫っている。本当は建物の建て替えを考えないといけない状況だが、今その力は残っていない。
連れ合いと話す度に「これからどうしたらいいだろう」「このままだと立ち行かなくなる」という話題が頻繁に出てくる。その話題になる度、お互いに考え込んで沈黙する時間が訪れる。静かな時間でありながら、心騒ぐ時間。
そんな中、教会の人たちは今、庭を綺麗にし、牧師館を集会室として使えるよう整えようと動き出している。
一方では「このままではもう教会として成り立っていかない」と話し合い、もしかしたら数年後の終わりというものが意識され始めながら、一方でそれでも前に進んでいこうとしている。
イエスが「今、わたしは心騒ぐ」と言いながら立ち止まったままでいるのではなく、それでもエルサレムの中へ進んで行った姿が浮かんでくる。そんなイエスが共にいてくださるからこそ、教会はこうして前に進んでいこうと出来るのではないかと。
「死」は終わりではない
心騒ぎながらもエルサレムの中を進み行こうとする時、イエスは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われた。
たしかに植物の花が枯れ、地に落ちた種は、芽を出し、成長し、いずれ多くの実をつけることになる。「終わりは始まり」ともよく言われる。一方でそれはある種綺麗事のようにも聞こえるかもしれない。
二千年前、イエスが十字架に磔にされてから、世界は変わったのか?神の子である救い主が何も出来ない姿で十字架にかけられ、死んだことが、どんな実を結んだのか。
キリスト教は、イエスが、歴史的に「死んだ」後に始まった。福音書を読む限り、イエスが地上で生きている間に、イエスのことを真に理解している弟子たちなどいなかった。イエス・キリストへの信仰は、むしろイエスの死後、紡がれていった。
何も出来ない姿で十字架に磔にされるというイエスの「死」は、弟子たちにショックを与え、女性たちを「絶望」させた。救い主として期待した方はあっけなく「終わって」しまった。
信じて期待していたものが一気に崩れ去るという経験は、どれだけ虚しくさせたことか。
ところが不思議なことに、その後「復活したイエスに出会った」という人たちが現れ始めた。しかも彼ら彼女らによれば、復活したイエスはしばらく弟子たちの間で過ごした後、「天に昇って」いったという。いずれにせよ「いなくなってしまった」。
本当はそこで終わってもおかしくなかった。荒唐無稽な話として。
でも多くの人がイエスの「復活」と「昇天」を信じ、この方の姿を見られなくなった今も、天の上から、自分たちの間で、立ち働いているのだと思うようになった。
「死」は、救いを必要とする人たちが、救いを求めて前に進み続けようとする思いを奪うことなど出来なかった。人々の希望に「終わり」をもたらすことは出来なかった。
イエスは、何も出来ない姿で十字架にかけられる、そんな「終わり」へと進み続けた。心騒いで立ち止まっても、また歩き始められた。キリスト教は、そのイエスが、わたしたちと共にいてくださるという信仰なのではないか。
わたしたちが、ただ「終わり」に向かって進んでいるように感じる時も、もはや何も出来ないように思われて「心騒ぐ」時も、わたしたちはこの方が一緒に進んでくださると信じることができる。
なにかに絶望し、立ち止まってしまうわたしたちと、「神の子」「救い主」が同じ姿になって、それでも進み行く姿に、人々は付いて行った。立ち止まったままでいるのではなく、「終わり」を意に介さず進み行く力が与えられ続けてきた。
「終わり」を超えて進む
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」イエスの死と復活は、いったいどんな実をもたらしているのか。
世の中にはかつてと比べてはるかに信仰者は増えたが、人間の間で起こる争いも、憎しみも、世の中の不条理も、何一つ変わっていないように見える。すべての人が同意するような「成果」はおそらく見えない。
一方で、「いつまで経っても繰り返される憎み争い」「変わらない不条理な世の中」があっても、これまで人々はそれに対して「立ち止まり」、「諦めてしまう」ということはなかった。
黒人解放運動の歴史の後も、人種差別はなくなっていない。キング牧師が夢見た世界はまだ全然遠いかもしれない。それどころかヘイトスピーチ、国や人種を一括りにした偏見が根強く残っている世の中かもしれない。
今はキング牧師もマルコムXもいない。分かりやすいリーダーは死に、大きなうねりを起こし続けるパワーのある人はいないのかもしれない。「黒人解放運動」は教科書に載っている「終わった」事柄として印象付けられているかもしれない。
しかし、差別に対して「否」を唱える叫びは止んでいない。わたしたちの中に巣食う偏見を正そうとする動きは止まってなどいない。
軍事クーデターが起こってからもう二年以上になるミャンマーでは、民間人が殺され、抑圧される状況はほとんど変わっていない。それでも日本では、毎週金曜日の午後9時から、ミャンマーを覚えての祈り会が、今もZoomで続けられている。
イエスが何も出来ない姿で十字架にかけられ、死なれたこと、そして復活され、天に昇られたことは、わたしたちが「もう終わりだ」と思う大きな出来事や力を前にしても、それでも進み続ける力を、今も与えてくださっている。