聖書:サムエル上9:27−10:1/ヨハネ12:1-8
宣教:「家に広がる香油の香り」
賛美:298,567,29
油が注がれる時
人に油が注がれるというのは、聖書の中でだいたい2つの場面に分けられる。
一つは、新しい指導者誕生の場面。今日のサムエル記上9章は、預言者サムエルが後にイスラエルの王となるサウルに油を注いだ場面だった。神が遣わした人がある人の頭に油を注ぐと、その人が新しい指導者になった。
「イエス・キリスト」の「キリスト」は、旧約聖書の言語であるヘブライ語の「メシア」を新約聖書の言語であるギリシャ語に訳したもので、この「油注がれた者」を意味する。
「メシア」「キリスト」「油注がれた人」とは、要は「神によって(何かをするために)立てられた人」。
人に油が注がれるもう一つの場面は、埋葬の場面。聖書の時代、人々は亡くなった人の身体に香油を塗って埋葬の準備をした。遺体に香油を塗るのは、腐敗臭を和らげ、身体を傷みにくくし、最後の別れをするためだった。
死の香りから香油の香りへ
今日の話は「ラザロの復活」という物語の直後の話。イエスと仲が良かったマルタとマリアという姉妹には、ラザロという兄がいたが、ある時病気にかかって重症になる。
マルタとマリアは急いで離れた場所にいるイエスを呼ぶが、イエスが辿り着く前にラザロは亡くなってしまう。イエスが着いた時には、ラザロはとっくに墓に埋葬されており、死んで四日も経っていた。
イエスは、墓となっている洞窟を塞ぐ石を取り除けるよう言う。マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と心配する。実際、墓を開けた瞬間、周囲にはそのにおいがたちこめたはずだった。
しかしイエスは意に介さず墓を開けさせ、神に祈って「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫んだ。すると、手と足を布で巻かれた生々しい状態のラザロが出てきた。
今日の物語の直前は、死の香りが場を支配していた。死臭が、死んで四日経過した遺体の腐敗臭が、人々の鼻をつく。
そして今日、人々の鼻は香油の香りで支配される。皆、耐え難いにおいから解放され、心を落ち着かせるかぐわしい香りに満たされる。
よく考えてみると、「死の香り」が漂っていたのはラザロの「復活」の場面だった。かぐわしい香油の香りが支配する今日の場面は、イエスによれば「埋葬の準備」の場面でもあった。
場を凍りつかせるマリア
ナルドの香油は高価なものであり、1リトラという量はだいたい300グラム弱。それで200万〜300万円ほどした。マリアはそれらすべてをイエスの足に注ぎ、当然その香油は床に流れ落ちていった。
「いきなり何をするのか」と驚くと同時に、「もったいない」と誰もが思ったはずだった。
ユダは、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と責める。ヨハネ福音書は後にイエスを売り渡すユダに厳しく、「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた」と印象を悪くしている。
金に執着していたということならなおさらだったかもしれないが、「もったいない」と感じたのはユダだけではなかったはず。同じ場面を描く他の福音書でも、周りにいる人たちがこの行為に憤慨したり、弟子たちが責め立てたりしている。
誰が見ても、マリアのしたことは意味のないこと、香油を無駄にすることだった。実際、マリアはなぜこんなことをしたのか?
マリアは場を凍りつかせることを次々としていった。まず男性ばかりの部屋で髪をほどく。それは当時敬虔なユダヤ人女性であれば決してしなかったこと。
次にイエスの足に香油をかける。王に香油を注ぐことはあるが、その場合は頭にであって足にではない。
さらに彼女は、イエスの足に触れて香油を塗りたくる。当時、独身女性がラビの足を撫で回すなんてことはあり得なかった。そして自分の髪で足の香油を拭う。当時からすればあまりにも生々しい接触だった。
文字通り場が凍ったはず。
理解されない人
マリアは、一週間ほど前、兄ラザロをイエスに生き返らせてもらった。いくら感謝してもし足りない心持ちだったはず。
一方で、一部のユダヤ人やファリサイ派の人たちがイエスを殺そうと企んでいる様子が前の物語の中で描かれている。マリアはその不穏な空気を感じていたのかもしれない。実際この一週間後、イエスは死ぬことになる。
「肉親を生き返らせてくれたこの方こそメシアだ」(神が立てられた油注がれた人)と高揚すると共に、じわじわと死がイエスに迫っていること、埋葬の場面が近づいていることを敏感に感じ取っていたのかもしれない。
もしかするとわたしたちが考える以上に、マリアは深い洞察力に優れた人だったのかもしれない。しかしそれを言語化できない。各福音書を見る限り、マリアはコミュニケーション能力に長けた人ではなかった。
私は、もしかするとマリアは現代であれば発達障害のグレーゾーンだったり、あるいはアスペルガー症候群と呼ばれる層だったのではないかと感じる。
実際マリアは、周りの人に合わせて空気を読めるタイプではなかった。ルカ福音書では、ある時家に招き入れたイエスをマルタがもてなす一方で、マリアは他の男達と共に座ってイエスの話を聞いていた様子がある。今日のマリアの振る舞いと同じく、当時の価値観を考えれば異様な光景だった。
実はいつも、「なんなのこの人?」「なんでそんなことするんだ」と奇異な目で見られる人だったのではないか。そして、自分でも自分がなぜそういうことをするのかわからない、説明できないことが多かったのではないか。
実はイエスも、周りから奇異な目で見られ続けた人であり、周りからなかなか理解されない人だった。その意味で、今日の物語は実は、イエスにとっての救いの物語なのではないか。
普段から周りに理解されなかったマリアが、弟子たちにも理解されていなかったイエスに油を注ぐ。それは「あなたこそメシアです」という信仰と共に、この方が死に近づいていくことを予感した埋葬の準備だった。イエスにとって初めてありのままの自分が受け止めてもらえた瞬間だった。
わたしたちはなぜマリアを信頼できないのか
惜しげもなく香油をイエスの足に塗りたくったマリアの行為は、周りから見て何の生産性もない、ただ香油を無駄にした行為だった。
しかし、イエスだけには違った。イエスにとってはマリアの行為が、これから自分が向かっていく方向を改めて指し示してくれる、イエス自身がそれを受け入れるために必要な、象徴的な行為だった。
一気に家中を満たす香油の香りは、イエスの心を落ち着かせ、死と向き合う準備をさせる。群衆も弟子たちも、イエスがこれから十字架にかけられるなどとつゆほども思わない中、イエスにとってはマリアの行為こそ、自分を受け入れてくれるものだった。
多くの聖書学者が、本当にマリア自身はイエスが言うように埋葬の準備をしたのか、そこまで正確にイエスのことを理解していたのか、疑問を述べる。彼女自身は何も言わないし、きっとイエスのことを正しく理解してこのようなことをしたわけではないと。
しかし、イエス自身が「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」と言っている。わたしたちはなぜかその言葉をなかなか信用できない。どこかでマリアを軽んじてしまう。理解しているわけがないと。
そういうふうにマリアに背を向けることは、実はイエスに背を向けることへと繋がっている。イエスを信じるということは、説明の出来ない形で、マリアのように信じることでもある。
説明できない信仰
しばらく前に、色んなことで度々電話のやり取りをする何人かの方から、「聖書のことを勉強したい。もっと分かるようになって、他の人にも説明できるようになりたい」と言われることがあった。
元々人とのコミュニケーションに困難を覚えている方で、普段から皆が何を話しているのかついていけなくなることが多く、小さい頃から勉強も苦手でいろんな知識がないことに悩んでいるようだった。
「聖書に何が書いてあるのか、登場人物の名前も覚えられない。地名も途中からごちゃごちゃになる。話を読んでいてもなかなか頭に入ってこなくて、でも頑張って理解しようと思うんです」と言われる。
「聖書に現れる登場人物をだいたい覚えていて、地名も分かっていて、すべての話が頭に入っていて、聖書に書かれていることすべてに納得している人なんて、牧師でもいないですよ」と言うと、キョトンとされる。
うまく言葉にできない、説明できない、けど信じているものがわたしたちにはきっとある。それは知識や理路整然とした説明や常識的な考えでは言い表せないものなのかもしれない。
マリアは言葉を発しない。信仰の告白と呼べるような言い表しをしない。この物語でマリアは徹頭徹尾、自分の奇異なふるまいを通してイエスへの信仰を表す。
そしてそれは、不完全な、未熟な信仰ではなく、イエスにとって自分が理解された、受け入れてもらえた出来事として受け止められた。