聖書:ヨシュア24:14−24/ヨハネ6:60-71
宣教:「こんな話を聞いてられるか」
賛美:297,481,29
すぐ空腹になる
五千人以上の人々に5つのパンと2匹の魚を分けて満腹させる奇跡を行われた翌日、人々はまたイエスを捜してやって来た。
イエスは人々に「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言い放ち、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言う。
一時的な空腹を満たすパンとは違う、「朽ちない食べ物」「永遠の命に至る食べ物」とは何なのか。
受難節に入って最初の日曜日に聞いた、「荒野でサタンから誘惑を受けるイエス」の物語を思い出すかもしれない。空腹にあえぐイエスにサタンは「神の子なら、これらの石がパンになるよう命じたらどうだ」と言っていた。それに対しイエスは、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と返していた。
「朽ちない食べ物」「永遠の命に至る食べ物」のために働きなさいと言われて、人々は何をしたらよいのか問う。イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と自分自身を指して言った。
すると、人々は「わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか」と言う。しかし、この人たちは昨日、五千人以上に5つのパンを分け与えたイエスの奇跡を目の当たりにしたはず。
彼らは、「わたしたちの先祖は、荒野でマンナを食べました」と言う。しるしについて彼らが具体的に求めたのは、やはり食べ物だった。
マンナ(「何これ?」)
マンナとは、かつてエジプトを脱出した自分たちの先祖が、モーセの祈り求めによって神から与えられた、天から降り積もるパンの代わりとなる白い物質だった。
実は「マンナ」というのはヘブライ語では「これは何?」という意味。かつてイスラエルの人々は荒野で放浪する中、毎日腹いっぱいのマンナ(「これは何?」)を食べた。
ただ、出エジプト記の物語を読み進めると分かるが、人々はだんだんと、これでは満足しなくなっていった。マナに飽きて、途中から肉を求めてモーセを困らせるようになる。そして今度はモーセの祈り求めによって、うずらの大群が通りがかり、人々は肉を腹いっぱい食べる。
しかし、それからしばらく経つと今度は喉の乾きが気になって…というふうに、モーセに率いられた人々は空腹や渇きを経験する度に、不平不満を言ってモーセを困らせた。
不思議なことに、満たされない思いをする度に彼らは、「なんで我々をエジプトから連れ上ったのか。あそこにいればパンも肉も腹いっぱい食べられたのに」とモーセに言うのだった。
神は、エジプトを出てから何度も、天からパン(マナ)を振らせてくれたり、うずら(肉)を用意してくれたりと彼らを満たしてくれていたのに。「今回もきっとなんとかなる」とは思わなかった。
それでも神は人々のために、天からマナを降らせ続けた。毎日一人ひとりがボール一杯にかき集められる「これは何?」(マナ)を。
空腹に悩まされるといつも「なんで?」という問いを持つ人々に、神は逆に「これは何?」という別の問いを意味するマナを与え続けた。
神は「なんでこんなことに…」と問う人々に、別の問いを持たせようとする。「これは何?」を食べさせることで。「神は今何をしようとしている?」と。
神は空腹を満たすパンだけでなく、本当はそれ以上に人々が必要とするものを与えようとし続けてきたのではないか。「なんで?」という問いに囚われ続けるのではなく、神は今まさに「何か」しようとしていると信じる心を。
わたしがいのちのパン
イエスは、かつて先祖がマンナを食べられたように、自分たちを満ち足らせるしるしを求める人々に、「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。」「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と言う。
人々が「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは「わたしが命のパンである」と言う。
イエス自身がかつてのマナに代わる「これは何?」なのだということ。
思えばここまで、「なんで?」という問いに支配される人たちの姿が映し出されてきた。「なんでこの人は病気なのですか?本人が罪を犯したからですか?本人の家族か先祖か罪を犯したからですか」という問いに囚われる弟子たち、「なんで我々はいつもパンにあえがなければならないのだ」と不平不満を言うイスラエルの人々。
「なんで?」という問いは現代のわたしたちもがんじがらめにする。「なんで政治家は世の中を良い方向へ導いてくれないのだろう。」「なんで戦争を終わらせられないのだろう。」「なんで状況は悪い方へばかり進んでいるのか。」
イエス自身が、これらの「なんで?」という問いに対して、神は御自分を救い主として天から与えられたと言う。
それは「問い」に対する「答え」というより、わたしたちを別の「問い」へとかき立てるもの。「これは何?」「神はこの方によって何をしようとしている?」
実にひどい言葉
今日の物語では、イエスの言葉に多くの弟子たちが「ついていけない」という反応をする。「実にひどい言葉だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と。
「実にひどい」と訳されているのは「固い」という単語。固すぎて「噛み砕けない」。つまり「理解できない」ということ。
イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言うイエスに、人々は「何を言っているんだ?」と戸惑う。人々はイエスが大工であるヨセフとマリアの息子だと知っていたし、中にはイエスの幼い頃から知り合いの人もいたはず。
また人々は、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言うイエスに、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と互いに議論し始める。
この反応を噛み砕いて言えば、「なんだこれ?」という反応。実際にイエスを前にして多くの人は「なにこれ?」と思った。
イエスとの出会い、イエスとのやり取りは、ファリサイ派や律法学者といった敵対する人々だけでなく、弟子たちにとっても「なにこれ?」と問わずにはいられないショック(躓き)が生じるものだった。
実際多くの弟子たちがイエスから離れていった様子があるし、残った弟子たちの内、最も近しい十二人の中にも、イエスを裏切ることになる者がいた。
ヨハネ福音書では特にユダを名指しして「悪魔だ」とイエスに言わせている。しかし、イエスが逮捕された時、結局全員が見捨てて散り散りに逃げたことを思うと、イエスの側に立てば全員に裏切られたようなものだった。
「こんな話聞いていられるか」という反応は、かつてマンナを食べたにもかかわらず不平不満を言い続けたイスラエルの人々と重なる。ただ、それにもかかわらず神はマンナを降らせ続けた。
イエスもまた、多くの弟子に離れていかれたり、裏切られたり、見捨てられたりしても、彼らの間で立ち働き続けた。「実にひどい言葉だ」と言われながら、人々にショックを与える教えを話し続けた。
今もわたしたちに、聖書を通して「固い言葉」「実ひどい言葉」を語り続け、わたしたちを揺さぶり続けている。しかしこの揺さぶりによって、わたしたちは「なんで、なんで」という問いから、「これは何?」「なにこれ?」という問いをする者へと変えられていく。
裏切ることになるユダを「悪魔だ」と言ったイエスの言葉は、今もわたしたちにショックを与える。しかしイエスは、そこまで辛辣に言うユダを、それでも最後まで食事の席に招き続けた。
単純に、ユダは悪者で救われなかったという結論に結び付けない、「なにこれ?」「どういうこと?」と思わせる働きかけをイエスは物語の中でし続ける。
永遠の命の言葉
今日の物語の中で、多くの弟子たちが離れ去る中、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われたイエスに、ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と返す。
イエスが裁判にかけられ、十字架に磔にされるに至るまで、ペトロが本当に従い続けるのか、わたしたちは物語を知っている。彼は最後まで一緒にいられるわけではなかった。
しかし、ペトロ自身にとっては自分が取り返しのつかないこと(彼自身にはそれこそ「裏切ってしまった」とさえ思えたであろう、イエスの否定)をしてしまったと思った後も、イエスの働きかけは終わっていなかった。「永遠の命の言葉」は、ペトロが離れ去った後も、彼に語りかけ続けた。