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執筆者の写真鈴蘭台教会 日本基督教団

2024/02/25(日) 受難節第2主日礼拝 宣教要旨

聖書:列王記下6:8−17/ヨハネ9:1-12(41)

宣教:「見たくないものを見てしまった」

賛美:301,446,29


今日の物語

  • 鈴蘭台教会は「この日にこの聖書箇所を読む」と指定している「聖書日課」に従って、礼拝でその日の聖句が朗読される。今日はヨハネ福音書9章の1〜12節を朗読していただいたが、本当は41節までが聖書日課で読むようになっている。

  • 朗読いただいた部分は、生まれつき目の見えない人を見かけたイエスが、唾で泥をこねてその人の目に塗り、シロアムという池に行って泥を洗い流すよう言うと、その人は言う通りにし、たちまち目が見えるようになったという話だった。

  • 人々はいつも物乞いをしていた彼が、目が見えるようになって帰ってきたのを見て困惑する。

  • 男は、自分を癒やしてくれたのはイエスという人だということは分かっていたが、見えるようになった時には離れていたので、その人が誰なのか、どこへ行ったのかは知らなかった。

  • この話は41節まで続く。人々は盲人の目が見えるようになったことをなかなか信じられない。そしてこんなことをした者はどこにいるのかという問題に発展する。

  • 人々の関心は、「この人の目が見えるようにしてくれた人はどこにいるのか」ではなく、「働くことを禁じられている安息日に治療を行った不届き者はどこにいるのか」という問題に移る。

  • 目が見えるようになった盲人が見たのは、人々が喜んでくれる姿ではなく、困惑し、むしろ怒っている姿だった。人生最初に見たかった光景ではないはず。

  • 目が見えるようになった人の両親も、ユダヤ人たちを恐れて息子の治癒を公に喜べない。

  • イエスは、5章の物語でも安息日にベトザタの池で体の麻痺した男を癒やしているが、その後も安息日に同様のことをし続けていた様子が語られている。

  • ユダヤ人会堂を仕切っていたユダヤ人たちは、イエスが安息日に堂々と癒やしの業を行い、人々を惹きつけていくことを苦々しく思っていたよう。イエスを「神から送られた救い主だ」と言う者がいれば即刻追放することにしていた。

  • 目が見えるようになった男は、自分を癒やしてくれたイエスは神から来た人だと信じたが、それによって結局ユダヤ人会堂(ユダヤ人共同体)から追放される。

答え合わせの信仰

  • 人々は、盲人の目が見えるようになったことに対して、その不思議さや喜びよりも、「安息日に治療するイエスは神から送られた方なのか」、「罪人なのか」というように、「正しいか」「正しくないか」、「正解か」「間違いか」が気になってしまう。

  • コロナ禍で、わたしたちも「正しいか」「正しくないか」を常に気にしてきたのではないか。医療現場が逼迫する中、いのちを守るために教会を閉じるという選択は本当に「正しかったのか」。逆に「集まって礼拝を守ることこそ教会の生命線」として、教会を開き続けたところも、それが「正しいのか」「正しくないのか」内外から問われ続けた。

  • 礼拝配信を続けること自体にも、キリスト教界隈では様々な思いが聞かれる。

  • しかしそこで気にかけるべきなのは、本当に「正しいか」「正しくないか」なのか。

  • コロナ禍でわたしたちは、今まで「見ようとしなかったもの」に否応なしに目を向けることになった。教会に来れない人はどうやって毎週の礼拝に参加できるのか、全員が自宅で心を合わせたり、配信を通して参加する形を通して、初めて視界の全面にその事が映った。

  • 集まっていない、対面でない形を「礼拝」と呼べるのか、「正しいか」「正しくないか」がいろんなところで気にされたし、「正しくはない」のかもしれない。それでも、いろんな制限がある中で礼拝に参加できることの重みや喜びを、わたしたちはどれだけ受け止めてきたのか。

  • イエスの弟子たちも、「答え合わせをしたがる」人たちだった。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」という問いには、「正解」があると思っていた。

  • 弟子たちには既に「答え」があった。当時ユダヤ人の間で蔓延し、多くの人を地獄に落としてきた答え。「重い病気や障害は、罪の結果である」という答え。彼らは、盲人の目が見えない理由は、本人か、家族か、はたまた先祖の誰かが罪を犯した結果だと考えた。

  • 弟子たちはイエスが「一問一答」するのを期待する。「答えはAだ、Bは違う」と。しかしイエスはAともBとも言わない。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためだ」という。

さらなる「問い」を生む「答え」

  • イエスは「AかBか」という弟子たちの答え合わせの質問に乗る形では答えない。「神の業がこの人に現れるため」というのは、「因果関係を表す答え」ではなく、「今神が何をしようとしておられるか」という答えだった。

  • 「この人は目が見えない。なぜですか?」という「問い」に対して、“その人の目を開く”というイエスの「答え」は、「誰が悪いのか」という「問い」そのものを無意味にした。(「そんなこと気にしても仕方ないよ。彼はもう目が見えるからね」と言うかのように。)

  • むしろイエスの「答え」は、人々にさらなる「問い」を生み出した。

  • 目が見えるようになった人について、「これは座って物乞いをしていた人か?」「いや、違う。似ているだけだ。」「どうやってお前の目は開いたのか?」「イエスという方がしてくださいまして…」「その人はどこにいる?」「えーと、知りません。」

  • イエスの答えは、人々を安心させるわけでも、納得させるわけでもなく、さらに頭を抱え込ませた。

  • 実は「神の答え」というのはいつも、わたしたちを満足させ、それ以上考えなくていいようにさせてくれる麻薬のようなものではなく、わたしたちに「さらなる問い」を発生させるものなのではないか。

  • わたしたちが教会に来て、集まって、礼拝するのは、「答えを教えてもらうため」でも「答え合わせ」するためでもない。それが本来の目的であるなら、教会に来なくても配信で十分だし、書かれた本で答え合わせできるはず。わたしたちが教会の交わりを大切にするのは、「さらなる問い」を持ち続けるためなのではないか。

見たくないものを見てしまった

  • コロナ禍が落ち着いてきて、そろそろわたしたちは「答え合わせ」をしたくなるかもしれない。あるいは一つの答えに満足したくなるかもしれない。「コロナも落ち着いてきたし、配信は続けなくてもいいのではないか」とか、逆に「配信があるなら、来れない人も礼拝に出られていいよね」と結論付けてしまうとか。

  • わたしたちは、コロナ禍でやっと「見るようになった」ものから、また目を逸らそうとしていないか。

  • 本当はさらに目を凝らして見なければならないのではないか。教会に来られない人が全員配信を見られるわけではない。そこにも漏れている人たちがいること。配信で礼拝に参加できてもそれで満足できるわけではない、「身体性」のある交わりをやはりどこかで求めていたりすること。

  • そして今わたしたちは、「なんでこんなことになっているのだろう」と「理由」を求めるよりも、「今この状況の中で、神は何をしようとしておられるのだろう」と「神の業」を考える時なのではないか。

  • イエスが見えるようにしたのは、盲人の目だけではない。いつも物乞いをしていた盲人の目が見えるようになったことで、人々はこれまで「見ようとしなかったもの」を見ることになった。「見たくないもの」「目をそらしてきたこと」を「見て」しまった。

  • それは、盲人が見えるようになるより、見えないままでいる方が安心出来てしまう自分たちの姿かもしれない。村八分を恐れて息子の奇跡を喜んでやれない自分たちの姿かもしれない。

  • 教会で心穏やかに過ごしたいと思うわたしたちは、ここで深い悩みを抱える人が暗い顔をして口を開く時、理不尽な目に遭った人が取り乱す時、心に深刻な傷を抱える人が自分でもコントロールできずに攻撃的になる時、困惑するかもしれない。

  • しかし、もしかするとそれは、救い主がその人の目に泥を塗り、わたしたちの真ん中に立たせた瞬間かもしれない。わたしたちの目を開き、見ようとしなかったものに目を向けさせた瞬間かもしれない。

  • イエスは、「『私たち』は、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない」と言った。よく聞くとイエスは、「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない」と言っている。

  • 「わたしたち」とは誰のことか。どうやらイエスは今、目の見えない人を巻き込んで、一緒に神の業をあらわにしようとしている。周りの弟子たち、居合わせた人たちを巻き込んで、神の業を行おうとしている。

  • 教会は、わたしたちが見ようとしなかったものに神が目を向けさせ、聞こうとしなかった声に耳を澄まさせる交わり。そしてそこから神の業が現れていくはずの場所。

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