聖書:出エジプト17:3−7/マタイ4:1-11
宣教:「なぜ神を試したくなるのか」
賛美:300,284,29
受難節/四旬節/レント
今日は受難節最初の日曜日。この前の水曜日は「灰の水曜日」と呼ばれる、受難節の始まりの日だった。受難節とは、イエスが十字架の死に向かって苦しまれたことを覚える期間で、イースターまでの四十日間のこと。四十日なので「四旬節」とも呼ばれる。厳密には、日曜日はイエスの復活された「主日」なので、日曜日を除いて四十日を数える。
受難節の第一週目、教会では伝統的にイエスが荒野で誘惑を受けた物語を礼拝の中で思い起こしてきた。イエスが四十日間断食し、誘惑を受けたこの物語を思い起こすことから、わたしたちが四十日イエスの受難を覚える日々が始まる。
英語では「レント」とも呼ばれ、これは元々ゲルマン語で「春」を表す言葉から来ている。苦しみを覚える期間であると共に、イースターに向けて春の到来を感じる季節でもある。レントを過ごして迎えるイースターは、ちょうど春の到来の喜びと重なる。
荒野に行くイエス
マタイ福音書では、イエスは洗礼を受けた後、すぐ荒野に行く。イエスが洗礼を受けた時、最後に「神の霊」がイエスの上に降って来ていた。その「霊」に「導かれて」、「悪魔から誘惑を受けるため」荒野に行くという。
神の霊が降っていよいよ人々がメシア(救い主)として活動開始という時に、なぜか表舞台となる町ではなく、人里離れた荒野に行く。
荒野は、単に不毛な地、危険な地というだけでなく、悪魔や悪霊が彷徨う場所と考えられており、人々は恐れて安易に近づこうとしなかった場所。イエスはそこに四十日滞在し、断食する。
四十という数字は聖書において、何かの「準備期間」を示すことが多い。出エジプト記でイスラエルの民をエジプトから導き上った神は、すぐに約束の土地カナンへ連れて行くのではなく、荒野で四十年彷徨わせる。有名なノアの洪水物語は、四十日四十夜雨が振り続け、世界を滅ぼす大洪水が起こる。
イエスが荒野で四十日過ごしたのは、救い主として活動するための「準備期間」だった。四十日間イエスは何もしない。断食して食べることもやめる。この期間イエスがしているのはただ「待つ」ということ。
洗礼を受け、神の霊も降ってきたけど、救い主として公の活動を始める時は、「まだ」来ていなかった。
この後、イエスが悪魔とするやりとりで一貫しているのは、実は「待つ」という態度。神の子なのだから、自分から石をパンに変えたり、神殿の端から飛び降りたり、この世を支配すればいいという悪魔の言葉に、イエスは飛びつかない。
ただただ「待つ」イエス
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という悪魔の問いかけは、空腹に苦しむイエスにとって、まさに今試したいことだったのではないか。神の子ならそれが出来てもおかしくない。実際イエスはこの後、たった五つのパンを五千人以上に分け与え満腹にさせるという奇跡を起こしている。
しかしイエスは、今それをしない。悪魔からの問いかけに『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』」という聖書の言葉を返す。
イエスは神の子としての力を行使してみようとするよりも、「神の言葉」を「待っている」。今イエスが人里離れた荒野にいるのは、そもそも神の言葉を聞こうとするため、一人になろうとしたのではないか。イエスにとって、救い主としての活動に必要なのは奇跡や不思議な力ではなく、何よりも神に聞こうとすることだった。
今度は悪魔も聖書の言葉をもって問いかける。「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と書いてあるではないか。神の子なら、神殿の端から飛び降りたらどうだと。
イエスは聖書の言葉に対し「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と、また聖書の言葉で答える。
「試す」ということは「本当かどうか確かめる」ことであり、確信するために必要なこと。逆に言えば、どこかに信じきれない思いがあるからこそ人は試そうとする。それ自体は自然なこと。
イエスは今、四十日何も食べていない中、命の危機に瀕している。死んじゃうかもしれない。でも本当に天使が自分を守ってくれるかどうか急いで試そうとしない。ここでもイエスは「待とう」とする。そして今日の場面の最後、実際に天使たちは来てイエスに仕えることになる。
かつてイスラエルの民は、強制労働を課されていたエジプトからモーセによって脱出し、荒野で放浪した時、モーセに飲み水を求めて困らせたことがあった。
「我々に飲み水を与えよ」という民にモーセは「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」と言っていた。この物語の最後には、モーセがその場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けたことが語られ、「イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言ってモーセと争い、主を試したから」という理由が語られている。
民が不平という形でモーセを困らせたのは、自分たちの間に本当に神がいるのか確かめるためだった。「試す」という形に現れたように、民は「なんとかなる」と信じ切ることができなかった。
もっと言えば、出エジプトを経験したイスラエルの民は、「待つ」ということにいつも苦しんだ。喉の乾き、飢え、追ってくるエジプトの戦車、四十年の放浪生活、神が救ってくれることを望む場面で、いつも「待ってなどいられなかった」。ところが神は繰り返しそういう機会をもたらしてきた。
イエスは「神の子」でありながら悪魔の誘惑において「待つ」ことを続ける。神の救いを「待つ」しかない人間と同じ姿を取って、その苦しみを味わう。一方で、「待つこと」、「何も出来ないこと」を、もはや単に苦しいものにしない。
イエスにとって「待つ」ことは、問題解決や状況改善といった分かりやすい変化を求めるより先に、神の言葉を聞こうとすることだった。
それは「我慢する」とか「耐え忍ぶ」とはベクトルが違う、「神は今何を言おうとしているのか、何をしようとしているのか、耳を澄ましてみよう、見てみよう」という態度、発見しようとする姿なのではないか。
待っているとき共にいる神
悪魔は、二度にわたって誘惑を突き返すイエスに、最後は「神を試す」のではなく、「悪魔に頼る」ことを提案する。高い山の上から世界の繁栄を見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言う。
イエスを荒野から一瞬で神殿のあるエルサレムに連れてきたり、一瞬で非常に高い山の上まで連れてきたりと、明らかに異常な力を持つ目の前の悪魔は、試すまでもなく確かな存在に見える。実際に世のすべてを与える力を持っているかもしれないという説得力を持つ。
しかしイエスは退ける。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と言って、今度も聖書の言葉で対抗する。同時にそれは、最後までイエスが「待つ」ことを貫いた姿だった。
イエスは、よっぽど確かなものに見えるサタンを、必要としなかった。その力に飛びつくまでもなく、イエスは「待つ」ことができた。「待つ」ことの中で、既に神との対話をしていたから。
悪魔とのやり取りの中で、イエスは「〜と書いてある」と言ってずっと聖書を引用する。神の言葉を聞こうとするイエスは、聖書の言葉と向き合う。神の言葉が直接頭に響いてくるわけではないわたしたちに手ほどきをするように。
イエスは、「神が来る/神が救ってくれる」のを「待って」いたのではなく、「待つことの中で神が共にいる」ことをわたしたちに示しているのではないか。
「共に待つ」共同体
牧師としていろんな方の相談を受ける中で、硬直状態に陥ることが多い。次から次に不安が出てたまらない人、様々な事情で人とのコミュニケーションがうまくいかない人、カルト的な団体によって家族との関係を壊されている人。
出会ったり電話したりして関わりを続ける中、それぞれが苦しんでいる問題を、短い時間で劇的に解決できることはない。だいたいどうなるかと言えば「待つ」しかなくなってくる。功を奏するようなことは何も出来ない時間がやって来る。
最初の頃は、「こうしてただ話をしているだけでいいのだろうか」「効果的なアドバイスも解決策も出せなくて、意味があるんだろうか」と思っていた。
しかしだんだんと、「何も出来ない」時間も「一緒に待つ」時間なのだと気づくようになってきた。その人の抱える問題について、何の進捗もないように見える時にも、笑い合ったり、一緒に泣いたり、なぜか電話越しに歌ったり、小さな変化を喜んだり出来ることに、目が開くようになってきた。
ある瞬間には切実に、神に対して「早く来てください」「早く救ってください」と思っているのに、そんなふうに「一緒に待つ」ことの中で「ひょっとしてもう来ているのではないか」、「今ここに共にいるのではないか」と思うことがある。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)とイエスが言われる教会の交わりは、「共に待つ」共同体のありようを示しているのではないか。