聖書:申命記8:1−6/ヨハネ6:1-15
宣教:「絶対足りないけど分けてみる」
賛美:198,486,29
大勢に食べさせる前提のイエス
今日の物語は最初に、大勢の群衆がイエスの後を追ってくる様子がある。人々が来る理由は、「イエスが病人たちになさったしるしを見たから」だった。
明らかに群衆は、病人を癒す不思議な業を行うイエスに、何かを求めてやって来る。イエスは人々の「必要」を感じ取る。
イエスはフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろう」と聞く。今ここに集まってきた人々に対して、イエスが察知した一番の「必要」は、パンだった。
イエスがこう言ったのは「フィリポを試みるためであり、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」という。いったいフィリポの何を試したのか?なんと答えれば正解なのか?フィリポは正解を答えられたのか?
「御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」というのもおかしな表現。自分で何をしようとしているかなんて、自分のことなんだから普通みんな分かっている。
ヨハネ福音書はしばしばイエス自身に、「父なる神がすることをイエスはする」という図式を語らせる。自分が何をしようとしているか知っているという不思議な表現は、父なる神が何をしようとしているか=自分に何をさせようとしているかを知っているということ。
つまりイエスにとって「神(父)はこの人たちにパンを食べさせようとしている、だから自分はそれを行う」ということ。
「どこでパンを買えばいいか」聞くイエスに、フィリポが答えるのは必要な金額。「良いパン屋があるんですよ」とか「駅前まで行かないと売ってないですね」ではない。それ以前のこととして、お金の算段を言う。一人ひとりに少量ずつ与えるとしても、二百デナリオンでは足りないと。
1デナリオンが一日分の賃金と言われるので、200デナリオンは半年以上働いて稼げるお金。どこで買えるか考える以前に、そんなお金はない。要するにフィリポは「全員に食べさすのは無理だ」と答えている。
イエスの質問(パンをどこで買おうか)は、目の前の人々に食べさせることは決定している質問。フィリポの答えは、目の前の人々に食べさせることを既に諦めている答え。
イエスと思いを一つにする弟子たち
アンデレはなぜ5つのパンと2匹の魚を持つ少年のことをイエスに伝えたのか。「こんなに大勢の人では、何の役にも立たない」と思っているのに。少年を紹介したところで何の意味もないのに。
アンデレもフィリポと同じく「この人たちに食べさせるのは無理」と思っている。しかしどこかで「でも食べさせたい」という思いがある。無駄だと分かっていてもつい「ここに5つのパンと2匹の魚を持つ少年がいますけどね」と言っちゃう。
フィリポも瞬時に群衆に行き渡るパンの費用を計算し、「少量ずつ行き渡らせたとしても」というより可能性のある条件を付した上で200デナリオンという金額を口にしたのは、「でも食べさせたい」という思いがあったのではないか。5千人以上の群衆ならパッと見て「無理」とわかるのに。
この時イエスは弟子たちと、ある種同じ思いを共有したのではないか。「絶対足りないと分かっているけど、この人たちを食べさせたい」という思い。
イエスなら奇跡を起こしてパンを出せるのではないかと考える前に、イエス自身が「どこでパン買う?」と聞いているので、弟子たちも現実的に考えた。だからこそ今イエスと弟子たちは同じ地平に立てている。「無理だと分かっているけど人々を満腹にさせたい」という思いを共に持っている。
イエスは、まるで日常の一場面のように、さっさとパンと魚を分け始める。何か不思議な業を起こそうとする前兆はない。
マルコ、マタイ、ルカ福音書では、イエスは割いたパンと魚を弟子たちに配らせる。ヨハネ福音書では特にそうは書かれていない。ただ「座っている人々に分けられた」という。
現実的に5千人以上の人々にイエス一人で配ったとは思えない。当然他の福音書と同様弟子たちにも配らせたはず。しかし、イエスと弟子たちの行動は他の福音書と違って、区別されず一つになっている。イエスと弟子たちは同一の動きをしている。
この物語には、劇的な奇跡の描写がない。みるみるうちにパンが増殖したとか、無いところから出てきたとかいうわけではなく、「分けてみたら足りた」というインパクトに欠ける描写。なぜだか人々は満腹する。
この奇跡はまだ終わっていない
しかし、「ここにいる群衆」が満腹した時、イエスはさらに残ったパン屑を集めさせる。「少しも無駄にならないように」と言って。アンデレの言った「何の役にも立たない(無駄)でしょう」という言葉を思い出す。
五千人以上に分けるには絶対足りない、あったところで「無駄」だと思われていた5つのパンと2匹の魚が、結果的に人々の空腹を満たしたように、今度はこぼれ落ちたパン屑が12の籠を満たす。
ここで言われている籠というのは、小学生一人が入れそうな大きな籠で、背負えるようになっていた。それが12の籠一杯になるのだから相当な量。
パン屑一杯になっている、持ち運べる背負い籠12個。そしてイエスの12人の弟子たち。余ったこのパンはこの後どうなるのか?
あるいは12という数は、イスラエルの民にとって、イスラエル十二部族を想起させる数。イスラエルの民全体を思わせる数字。わたしたちはまた考える。イスラエルの民を満ちたらせるには、たった12籠だけでは絶対足りないと。
「この人たちに食べさせたい」というイエスと弟子たちの思いは、ここだけで終わらないということではないか。その業は広がっていく。
物語はここで終わるが、結末はわたしたちの想像に委ねられている。「少しも無駄にならないように」というイエスの言葉の余韻を残して。この奇跡には続きがあることを印象付けて。
絶対足りないけど分けてみる
パンを求める人々、救いを必要とする人々はわたしたちの間に、わたしたちの世界に現実にいる。その光景を前に、イエスはさっさと奇跡を起こさない。「どこでパンを買えばよいだろうか」と、今もわたしたちに聞いてくる。食べさせたい、助けたいという前提で。
わたしたちはどう答えているのか。わたしたちの中のフィリポが答える。「ロシア・ウクライナの戦争は泥沼化しています。平和的解決は困難です。」「イスラエル・ガザの戦争を止める政治的カードは、手元にないのです。」「軍事クーデター後のミャンマーの状況を変えるには、各国の関心があまりにも冷たいのです。」「能登半島にボランティアに行く手立ても体力も、もう自分にはないのです。」
わたしたちの手元にある物資も、力も、お金も、今の状況から救われることを願う人々のためには絶対足りない。何かしてみたところできっと無駄だと思う。
しかしひょっとして、無理に決まっているのに「どこでパンを買おうか」と聞いてくるイエスに、わたしたちの中のアンデレが、無理だとわかっていながら自分たちの持つ小さな可能性を思い出すかもしれない。「…そういえば、ここにパン5つと2匹の魚があります。何の役にも立たないでしょうが」と。
イエスは、わたしたちが何の役にも立たないと思っているものを受け取り、なんと感謝の祈りを唱えて、つまりイエス自身が「ありがとう、助かった。神に感謝しないと」と言って、もう分け始めているのではないか。
きっとそこに参画することこそ、本当はわたしたちが求めている人生なのではないか。イエスと共に、自分では絶対足りないと思っていたパンを裂き、魚を分け始める。
今日の物語は奇跡物語。わたしたちは今現在現実には起こり得ない話だと分かっている。5つのパンと2匹の魚が五千人以上の人間を満腹にさせるはずないと知っている。わたしたち人間の経験則では、不可能で、諦めるべきもの。
しかしイエスは意に介さず、ご自分が父と呼ぶ神は今何をしようとしているのかを考えた。弟子たちもイエスに倣った。
わたしたちも今、弟子たちのようにおそるおそる、半信半疑、イエスと共にパンを分け、魚を裂き、配り始めたらいいのではないか。
人間には出来ないことを起こされる神が、飢えている人々を前にして何をしようとしているのか、状況の変化を必要とする人たちを前にして何をしようとしておられるのか。
幸いなことに、本来周囲から呆れられるようなことをさっさと始めてしまう方がわたしたちと共にいる。無駄に見える、人々から呆れられるようなことを、イエスはもう始めている。