聖書:ヨブ23:1-10/ヨハネ5:1-18
宣教:「良くなりたいに決まってる」
賛美:472,76,29
ベトザタの池の「風景」
今日の箇所は、「ベトザタ」と呼ばれる池の前に、病人や障がいを持つ人が横たわっている様子、「風景」が出てくる。
写本によってはその後にこういう説明文が書かれているものがある。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」
新約聖書は印刷機なんてない時代に書かれたので、初めの頃、人の手で書き写されることで色んな人の手に渡っていった。その時代に書き写されたものを写本という。人の手で書き写されているので、写本によって他の写本にはない説明が入っていたり、あるいは省かれていたりするものがある。今わたしたちの手元にあるのは、それらの写本を比較して、「元々のオリジナルはこっち」と断定されたもの。
元々はわざわざ説明されていなかったが、書き写す人が説明の必要を感じて付け足したものだと考えられている。
いずれによ「ベトザタ」と呼ばれる池は、水が動く時、最初に入った者は障がいや病気が治ると考えられていた。
「助けて」が言えなかった人
そこに38年間病気で苦しんでいる人がいた。たぶん半身麻痺で動けず、横たわっている。
イエスはその人がもう長い間病気であると知って問いかける。「良くなりたいか」
しかし状況を見れば聞かずとも分かること。水が動く時最初に入った者が治るという池の前に横たわっているのだから、彼は「良くなりたい」に決まっている。
しかし、病人は「良くなりたいんです」という分かりきった答えを言うのではなく、なぜ自分が長年この病気で苦しんでいるのかを答えた。水が動く時、自分を池の中に入れてくれる人がいないこと、自分が必死で動こうとする間に、他の人が先に入ってしまうこと。
この人が苦しんでいるのは、単に体が動かないという病気によるものだけではない。彼には自分を助けてくれる人がいない。
第一声「良くなりたい」ではなく、「助けてくれる人がいない」と口にしたのは、それが、体の麻痺以上にその人を苦しめるものだったからかもしれない。
この人の思い、願いに耳を傾け、聞いてくれる人がいない。
風景と化される人たち
今、いろんな問題が山積しているわたしたちの社会でも、わたしたちを本当に苦しめているのは、実はそこなのかもしれない。自分たちの間で現実に困っている人がいることに、意識を向けられなくなった。
そこに問題があるのは知っている。原発、米軍基地問題にさらされる人たち、難病指定が外され国の補助が受けられなくなるかもしれない人たち、技能実習生、難民指定を受けられない子どもたち、病のために家族の間で痛みを抱える人たち。
しかし、わたしたちの社会はそれらを心に留めることを無意識に拒否し、風景とし、通り過ぎていこうとしていないか。
今日の物語でも、ベトザタにおいて、他にも多くの人が横たわっている回廊で、周りの人々にはそれが「風景」になってしまっていたのかもしれない。
イエスは、答えが分かりきっている質問、「良くなりたいか」と聞かれればそりゃ「良くなりたい」と言うに決まっている質問をして、この人の口を開かせる。この人の思いを聞こうとした。「風景」にしたままではいさせない。
「風景」から「床を担いで歩く人」へ
この後分かることだが、この人は自分に話しかけてきた相手が誰だか知らない。どんな人物だかわかっていない。にもかかわらず「主よ、(助けてくれる人がいないのです)」と言った。
「主よ」という呼びかけは、ヨハネ福音書のここまでの物語の中で、イエスに対して「なんとかしてくれるんじゃないか」という期待を持った人たちから出てくるものだった。
回廊を行き交う他の人々にとって「風景」に過ぎなかった自分に声をかけ、望みを引き出したイエスに、この人は心を開いたのではないか。
この日は安息日だった。物も生き物も担いで運ぶことは禁じられた日。誰もがその人を「助けない理由」を持てた。それは律法で許されていなかった。
しかしイエスは、「安息日に働いてはならない」という律法を無視する。その人を癒やし、さらにはその人にも律法を破らせる。「床を担いで歩きなさい」と言う。
傍から見た時、イエスは何も特別なことをしていない。他の場面のように病人に触れるわけでもなく、患部に泥を塗ったりもしない。ただ「床を担いで歩きなさい」と言うだけ。
逆に言えば、傍から見た時、主体的に動いているのはこの病人になる。イエスは一言語りかけるだけで何もしていない。彼は自分で起き、それまで寝ていた床を担いで歩き出す。
「風景」のままでいさせたい人たち
長年ベトザタの前に横たわって動けなかったはずの人が、床を担いで歩いている姿を目にして、「ユダヤ人たち」は言う。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
注意が必要だが、ヨハネ福音書に出てくる「ユダヤ人たち」という言葉は、ユダヤ人一般を指しているのではなく、イエスに敵対的な態度を示す勢力を表している。
麻痺で動けなかった人が動いている姿を見た第一声が「安息日だから床を担いではいけない。」その人が動いていることへの驚きや、よかったねという喜びよりも、律法の禁止事項が気になる。
彼が床を担いで歩く姿というのは、彼がもはや「風景」ではなくなったということ。律法の禁止事項にこだわる彼らはそれが受け入れられない。ある種の拒否反応だったのではないか。彼には「風景」のままでいてほしかった。
もう「罪」に支配されない
この後再会したイエスが言った言葉は何を意味するのか。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
まるで罪を犯したから長年麻痺による苦しみを味わっていたのだと聞こえる。しかし本当にそうなのか。「罪」とは何なのか。イエス自身、律法を破って安息日に治療し、治療した彼にも安息日に物を運ばせるという律法違反を犯させている。それは「罪」ではないのか。だとしたら「罪」とは何なのか。
この言葉を聞いたその人が次の瞬間行ったのは、「自分を癒やしたのはイエス」と「ユダヤ人たち」に知らせることだった。おかげでイエスは「ユダヤ人たち」から命を狙われるようになる。
しかし、長年の麻痺から解放され、もう二度とあんな苦しみを味わいたくないと思っているはずの人が、「もう罪を犯してはいけない」と言われた直後、悪意を持って行動するとは思えない。
つまり、彼にとっては自分を癒やしてくれた人について、黙っておくこと、秘密にしておくことこそが「罪」だったのではないか。
イエスが出会うなり「あなたは良くなったのだ」と言ったのは、自分の願いをやっと口にし、救われた人に、「もう黙している必要はない」「風景と化す必要はない」ということだったのではないか。
イエスは彼を癒やす前に彼自身の口から本音を出させようとした。それは彼がいつの間にか辞めてしまっていたことだったかもしれない。周りに助けを求めたところで無駄だと諦め、口を閉ざしてしまっていたのではないか。風景と化すことに慣れてしまっていた。イエスはまず、彼の口を開かせ、彼自身がどうなりたいかを自分で口にするよう促した。
「助けて」と言えず、自分自身を「風景」と化させる力に支配されている状態こそ、「罪」に支配された状態だったのだと思う。
自分を癒やしてくれたのがイエスだと分かって、彼はもう黙っていない。黙しているわけにはいかないと思う。そのことが「ユダヤ人たち」のイエスへの敵意を呼び起こすものだとしても、この不思議な業を行ったのは紛れもなくあの人、イエスだと伝えなければならないと感じている。もう「罪」に支配されないために。
「良くなりたいか」という問いかけ
わたしたち自身は、誰かからの「助けて」という声を聞きたくない自分、巻き込まれたくない、黙っていてほしい、「風景のままでいて」とどこかで思う自分と、「助けて」を言えなくなる自分、誰かを巻き込むのは悪いと感じる自分、「風景のままでいなければ」と思う自分の、両方がおそらくある。
わたしが信じるイエスという人は、わたしたちを「風景」のままでいさせないし、わたしたちが「風景」にしておきたい、動かないままにしておきたい問題を、目立たせ、自由に動き回らせる方。
この一件があってから、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めるが、その理由は「イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである」と書かれている。
「安息日にこのようなことをしておられた」は、ギリシャ語の動詞の未完了形が使われていて、この後も安息日に似たようなことをイエスがしていたのだと示している。イエスは辞めなかった。
この後も人々が単なる「風景」にしておきたい人たちに、「良くなりたいか」と声をかけ、「床を担いで歩かせる」ような、人々の心をざわつかせることを行い続けた。
それは今も、イエスが辞めていないことなのではないか。今の世の中で生きるわたしたちに対して、「良くなりたいか」という問いかけを続け、それを諦めさせる力(罪)に支配されないよう、働きかけてくださっているのではないか。