聖書:創世記47:27-48:22
解説:「マナセとエフライムの祝福」族長物語ヨセフ⑬
埋葬場所の指示
今日の箇所はヨセフの父ヤコブがヨセフを呼び寄せて遺言を語る場面。
ヨセフ物語の終幕は、父ヤコブの死と埋葬の物語となる。わたしたちがヨセフ物語として読んでいるものは、あくまでヤコブ物語の枠組みで描かれている。
エジプトに移住した時、ヤコブはちょうど百四十歳だった。それから17年が経ち、いよいよヤコブも天に召されようとしている。
死に瀕したヤコブはヨセフを呼び寄せ、自分が死んだらエジプトに葬るのではなく、先祖たちの墓に葬ってほしいと願う。
ヤコブが必死な様子で語るのは、この願いを叶えるためには、幾多の障害と出費を覚悟しなければならないとわかっていたから。実際ヨセフは、この後ファラオからそのための許可と、自分の休暇を乞わなければならなかった。
先祖たちの墓とは、おそらく祖父アブラハムが買い取り、サラやイサクと共に埋葬されているマクペラの洞穴の墓のこと。それは彼らが飢饉のために逃れてきたカナンの地にあった。
長男ルベンやユダではなく、ヨセフを呼び寄せたのは、ヤコブが特に愛した妻ラケルとの間に生まれた長子だったからか。はたまたヨセフがエジプト王ファラオに希える立場にあったからか。
ヤコブ、マナセとエフライムを養子にする
それからほどなくして、ヨセフの許にヤコブが病にかかったという知らせが入る。父の臨終を予感するヨセフは、自分の二人の息子マナセとエフライムを連れて行く。
座るのもやっとなヤコブは、死ぬ前にヨセフの二人の息子を自分の子どもにしたいと言う。
それは二人をヤコブの息子たちと同列に並べ、部族の長として認めることを意味した。ヤコブにはそうすることで、子孫の繁栄と土地取得を約束した神の意志を遂行することになると思われた。
つまり、この後、将来イスラエルの部族がカナンの地に戻り、約束の土地を取得していく中、神から与えられた土地として嗣業の地をエフライム、マナセも得ることになる。
ヤコブはヨセフが連れてきた息子たちを見ながら、「これは誰か」と尋ねる。奇妙に思うかも知れないが、ヘブライ語で「見る」という単語は単に「気づく」という程度の意味合いでも用いる。
ヤコブの父イサクが老齢になった時そうだったように、ヤコブもこの時点で目が霞み、よく見えなくなっていた。ヨセフがここにいるのは自分の息子たちだと伝えると、ヤコブはマナセとエフライムを祝福しようと言う。
わたしたちはなんとなく幼さの残る年齢の息子たちを想像するが、ヤコブがエジプトに来てから17年経っているのであれば、その時点で既に生まれていたヨセフの二人の息子は、この時二十歳くらいであったことになる。
しかし、ヤコブがヨセフに「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをも見させてくださった」と言うセリフや、二人を膝に乗せる様子を見ると、本来これはエジプト到着直後の出来事だったのだと思われる。
このあたりは物語が今の形になるにあたって錯綜してしまったよう。
48:9の「彼らを祝福しよう」は「彼らを膝に置こう」とも訳しうる。12節でヨセフが息子たちを「父の膝から離した」とあるように、実際ヤコブがマナセとエフライムを自分の膝に置いたことが分かる。「膝に置く」ことは、合法的な養子縁組の儀式。
そうしてヤコブが正式に二人を養子にすると、続いて祝福が継承されることとなる。
マナセとエフライムの祝福
アブラハムからイサクへ、イサクからヤコブへ神からの祝福が継承されたように、ヤコブは自身の孫であるマナセとエフライムに祝福を与えようとする。
古代人にとって祝福とは、現実的な意味を持った出来事だった。彼らは、特定の儀式と所作によって、一人の人物から他の人物へ祝福の働きが流れ、それは後から決して撤回できないと信じていた。
創世記の中で、これまで祝福は父から子へ、一人にしか継承されていなかったが、ここでは複数の人物へ祝福が与えられている。ヤコブはまずヨセフに、続いてエフライムとマナセに祝福を与え、次の章では他の兄弟たちにも祝福の言葉を述べる。
ただし、かつてヤコブの父イサクが息子に祝福を与えた時、結果的に長男ではなく次男のヤコブに祝福が与えられたように、ここでも当時の価値観であれば当然与えられるべき人物ではない、思いがけない人物へ祝福が与えられる。長男ルベンではなく、ヨセフとその息子たちに。
思い返せば「祝福」というのはいつも思いがけない存在へと与えられてきた。今回それは祝福を受けるヨセフにとってさえ思いがけない形で現れる。
祝福にあたってヨセフは二人の息子をヤコブの前に押し出す。右に長男マナセ、左に次男エフライムを置いて。通常、長子に優先権があり、右手の位置に長男が来るはずだったから。
ここには、右手の方がより大きな祝福の力を持つという、古風で原始的な考え方が残っている。
しかしヤコブはわざわざ両手を交差して、右手をエフライムの頭の上に、左手をマナセの頭の上に置く。ヨセフはヤコブの目がかすんでいるために間違ったのだと思い、儀式を中断して位置を直そうとする。ヨセフは「不満に思」った。
ここに来て、家族の間にまたトラブルが発生する。ヨセフは長男マナセにより重要な祝福が与えられて然るべきと思っているが、ヤコブは違う。ヤコブは将来弟エフライムの民族の方が大きくなると言ってそのままにさせた。
これは実際、士師の時代にヨルダン西岸地方中部のサマリア山地に定着したヨセフの部族の内、中央部に位置するエフライム族が早い時期から兄弟部族マナセを政治的に凌駕するようになっていたことが反映されているよう。後に来た王国はしばしば「エフライム」と呼ばれた(預言者ホセア)。
一方で、ヨセフが驚き不満に思う様子は、「祝福」というのがいつも人の意図を超えて与えられていることを描いているのかもしれない。
また、兄よりも弟の方が力をつけ、大きくなるというのはヤコブ自身が体験し、その息子ヨセフも現状経験していることだった。そのような「思いがけなさ」は今後も自分たちの民の間で起こるのだとヤコブは思ったのかもしれない。
本来、祝福の与え手は神なので、15〜16節のヤコブの祝福の言葉も、実際には内容的に、「神よ、どうかこの者たちに祝福をお与え下さい」という神への執り成しの祈りに過ぎない。
祝福の最後にある「わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように」というのは、エジプトの地で増えていく彼らの間で、父祖の名が忘れ去られないようにということか。
シェケム
21節最後でヤコブが与えるといった「分け前(シェケム)」とは、「肩」を意味するヘブライ語。古いカナン都市「シケム」のことを指して言っているよう。シケムの地は、34章でヤコブの息子シメオンとレビが略奪した地であり、本来そのことを嘆いていた。
また、今エジプトにいるヤコブに、(そしてまたヨセフも生涯エジプトの地にいるので)カナンの地にあるシケムの地を継承させることなど出来ないはず。後々ヨセフの子孫が受け継いだという理解なのだろうが、物語が混乱している。
祝福
今日の物語は「祝福」というのは何なのか考えさせる。思えばヤコブは「祝福」が与えられることに執着した人生だった。それを得るために父イサクを騙し、兄エサウとの間に確執をもたらしてしまった。
祝福を与えられるということは、旧約においてはとにかく「長生き」「財産」「子ども(子孫)」が多くなることを意味した。
それらはいつも、思いがけない者に、思いがけない形で現れた。