聖書:創世記46:1-47:11
解説:「よそ者として生き続ける民」族長物語ヨセフ⑪
前回までのあらすじ
前回、ヨセフは兄たちに自分の身を明かしていた。カナンの地に戻った兄たちは父ヤコブにヨセフが生きていることを伝え、ヤコブはエジプトへ行くことを決心する。ヤコブ自身は、死ぬ前にヨセフにどうしても会いたいと言って出発する。
神に命じられてエジプトへ
今日の46章では、改めてヤコブがエジプトへ行くことを決心する場面が出てくる。それはヤコブが出発し、ベエル・シェバというところまで来たときのことだった。ベエル・シェバは、かつてヤコブが父イサクとともに過ごした居留地であり、故郷だった。
ではもう一度このベエル・シェバにやって来るまでヤコブがどこにいたかというと、37:14によるとヘブロンだった。この地は、神がアブラハムとイサクに与えると約束した地。ヤコブには、そこを立ち去っていいのかという問題があった。
しかし、ベエル・シェバに戻った時、神が幻の中に現れ、「エジプトへ下ることを恐れてはならない」と言う。今日の物語ではあくまで神が命じることで、ヤコブはエジプトに行くことを決心する。
神はまた、このエジプト行きがヤコブたちにとって一時的なものであることを示す。「わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す」と約束し、ヤコブの子孫に与えると約束したカナンの地に戻ってくるという。
これは、50:4以下で物語られることになるヤコブの遺体の持ち帰りのことではなく、ヤコブの子孫であるイスラエルの民が出エジプトの物語で連れ戻される出来事を指す。
七十人のエジプト下り
8節からは、エジプトへ行ったイスラエルの人々、つまりヤコブの家族の名前が連ねられる。それは合計七十人になるようなリストになっている。
エジプトへ降ったイスラエルの家族の人数が七十人というのは、ヨセフ物語が記された時点で言い伝えられていたもの(申命記10:22)。この「七十人」という言い伝えの人数に辻褄を合わせしようとして、8節〜27節はかなり後に付け加えられたリストだと分かっている。
もともと「七十」という数字は、比較的大きな人間の集団を大まかに現す概数に過ぎなかった(出24:9、民11:16、士師8:30)。しかしここでは、その人数を杓子定規に正確な数字として受け取り、辻褄を合わせている。
7節ではヤコブは「娘や孫娘など」も一緒に連れてエジプトへ行ったと書かれているが、8節からのリストには、一人の娘と一人の孫娘しか載っていない。
この時点でベニヤミンが既に十人の息子たちの父親とされているような不自然さも、そういう事情(「七十人」への辻褄合わせ)からきている。
感動の再開の場面
出発したヤコブは、ヨセフの宮廷の近くにあるゴシェンの地を目指す。そしてゴシェンで落ち合うために、ヨセフのところへあらかじめユダを派遣する。なぜユダをあらかじめ派遣する必要があったのかは分からない。ユダは、43章や44章で兄弟たちの代弁者として際立った役割を演じてきた。
「ゴシェンの地」は、現在ワディ・トゥミラートと呼ばれる場所。ポートサイドとスエズの間の地峡を東西に走る狭く平坦なくぼ地。10節によると、王都はゴシェンからそれほど離れていなかった。
ヨセフは車を走らせ、父に会いにゴシェンへやって来る。22年間死んだものと思われていたヨセフが、大勢の従者に取り巻かれて父ヤコブと再会する。ヨセフは父の首に抱きつき、しばらく泣き続けた。感動の再開の場面。ヤコブ自身ももういつ死んでも良いとまで言う。
筋書き通りに事を運ぶヨセフ
一方で、エジプトへ降ってきたヤコブには、息子たちや数多い従僕たちや家畜の群れを連れて、どこに定着すればいいのかという実際的な問題がある。それはファラオの決定次第だった。
ヨセフはファラオとの謁見に備えて家族たちを指導する。ヨセフ自身は、自分の親族をなんとかして今いるゴシェンに居住させてやりたいと考えているよう。
エジプト人にとってパレスチナからやって来た異邦人は、常に警戒が生じる存在でもある。この胡散臭い人々を国境付近の地域に定着させるような好意をエジプト人に抱かせるのは困難だった。そんな場所におけば監督するのは難しく、問題を起こしかねない。
他方、ファラオが国のもっと中央部のどこかに彼らを定着させてくれるよう命じるとはもっと考えにくかった。なぜならエジプト人にとって羊飼いたちは「忌み嫌うべきもの」だったから。
実際にエジプト人が羊飼いを忌み嫌っていたかどうかは、エジプトの史料には裏付けがない。物語上重要なのは、そのような要素をヨセフが逆に利用しようとしていることだった。
ヨセフは、親族をゴシェンに定着させたいという希望をファラオの前では決して口に出さない。ただ、自分の親族が羊飼いであることを大いに強調し、家族にも自分たちの生業を決して隠さないように事前指導する。これによってファラオの決定がどうなるかある程度見当をつけることが出来た。
事はヨセフの筋書き通りに進行する。最初にヨセフが発言し、異邦人である自分の親族をファラオに紹介する。次に、対話が宮廷の作法通りに始まる。
まずファラオが、王としての一般的な問いで口火を切る。すなわち職業と身分を尋ねる。これ以降会話はすぐヨセフが望んでいた話題に入る。
「ゴシェン」という地名が口に出されるが、ヨセフはあくまで、自分の家族が現状たまたま滞在している場所として言及したにすぎない。
兄弟たちはファラオの問いに答えて、自分たちが羊飼いであることを告白し、ゴシェンに定着させてほしいと願い出る。彼らの言葉もヨセフと同じく、「ゴシェン」という決定的な言葉で終わる。
ファラオはまんまとヨセフの思惑にはまり、彼らがゴシェンの地に住まうことを許可する。それどころか、一族の中に有能な者がいるなら、自分の家畜の監督をさせるとまで言う。それはヨセフ以外の家族もエジプトの高官になる可能性が出来たということ。かなりの高待遇。
また、ファラオはヤコブに特別の関心を示す。見るからに高齢の男性に年齢を尋ねる。それに対してヤコブは「わたしの旅路の年月は130年」という答え方をする。アブラハムは175年、イサクは180年であったことを考えると、まだまだの年月だった。
最後にヨセフは、ファラオの許可のもと、家族にエジプトの国の所有地を与える。そこはラメセス地方の最も良い土地だったと書かれる。ラメセス地方もゴシェンの地と同じ領域を指す。
よそ者であり続ける
カナンの地でまだ「約束の土地」を実質的には与えられていないイスラエルの民。あくまで寄留者であり、旅人だった。
そして、与えられると約束されている土地からさらに離れる形で、今生き残るためにエジプトへ降らなければならなかった。
物語の中で繰り返されてきたように、エジプトにおいても、ヘブライ人、羊飼いはエジプト人の厭うものだった。ここにおいてもやはり「よそ者」であり続ける。
カナンの地でも、エジプトの地でも、「寄留者」「よそ者」であるということは、その地において「肩身の狭い者」となることであり、「弱い立場」に身を置き続けるということだった。
一方で「わたしがあなたと共にエジプトへ下る」「わたしがあなたを連れ戻す」と言ってくださる神。