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2024/04/21(日) 復活節第4主日礼拝 宣教要旨

聖書:イザヤ62:1−5/ヨハネ21:15-25

宣教:「わたしの小羊をよろしく」

賛美:325,512,29


格好がつかない場面で

  • 今日のイエスとペトロのやり取りは、先週読んだ箇所の続きにある。イエスは、ティベリアス湖畔で夜通し漁をして一匹も魚が取れなかった弟子たちに岸辺から語りかけ、もう一度網を打ってみるよう促す。

  • すると大量の魚がかかり、弟子たちは語りかけているのが復活されたイエスなのだと気づいた。ペトロは船の上で裸同然の格好をしていたので湖に飛び込んでいた。

  • そして、皆が陸に上がるとイエスは焼き魚とパンを用意しており、朝食を取るよう促した。今日の場面はその続きにあたる。

  • 食事が終わるとイエスはペトロに語りかける。湖から上がり、裸にビショビショの上着をまとった、ちょっとみすぼらしいペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と。

  • ペトロからすれば、なんとも格好のつかない瞬間にイエスとのやり取りが始まった。

「わたしを愛しているか」と三度聞かれる

  • かつて、他の弟子たちがイエスを見捨てたとしても、自分だけは見捨てないと言い切ったペトロに、イエスは「この人たち以上にわたしを愛しているか」と聞く。

  • ペトロはイエスが捕まってからギリギリまで「ついて行った」弟子だった。それこそ最高法院の中庭まで、身の危険を侵して付いてきた。イエスを慕い、愛しているのは明白だった。

  • ペトロはちょっと歯切れの悪い返答をする。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と。イエスが以前、総督ピラトに「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問され、「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と切り替えしたのと似ている。

  • 他の弟子たちもいる手前、「はい、この人たちよりもあなたを愛しています」などと言うのは憚られたのかもしれない。しかし他の福音書では以前、たとえ他の弟子たちがイエスを見捨てても自分はついていくと豪語していた。

  • でも今は、イエスが処刑される時そばにいなかったこと、最後までついて行くことが出来なかったことを否応なしに思い出す。しかもイエスは三度も「わたしを愛しているか」と聞いてくる。

  • ペトロは大祭司の庭で「イエスの仲間か」という問いかけに三度「違う」と否定したことがよぎったかもしれない。もしかしたら三度も「愛しているか」と聞くイエスに、自分への当てつけのように感じて悲しくなったのかもしれない。

  • ペトロは、「わたしはあなたをこの人たちより愛しています」と断言するには、もう自分でも自分のことがよくわからなかった。

  • 以前「あなたのためなら命を捨てます」と言ったときには、自分がイエスについて三度も知らないと言うなんて思いもしなかった。しかしイエスはそのなることを預言していた。ペトロさえわかっていないペトロ自身をよくご存知だった。

  • イエスへの愛は本心だけれども自信をもって言えないペトロは、イエスなら自分の心の内はよくご存じのはずと思って「あなたがご存じです」と言ったのかもしれない。そう言うしかなかったのかもしれない。

人間的な限界の中で、それでも愛す

  • 実は、イエスからの「わたしを愛しているか」という問いかけは、日本語では三回とも同じ言葉でも、原文のギリシャ語では違う単語で繰り返されている。

  • 一回目と二回目にイエスが言った「わたしを愛しているか」という言葉には、アガパーンという動詞が使われている。これは通常「神から人への無条件な愛」を意味するアガペーの動詞形。

  • これに対してペトロが「わたしがあなたを愛しているのはあなたがご存知です」と返す時に使うのはフィレインという動詞。これは「人間同士の友愛」を表す言葉。

  • ペトロにはもう、通常「神から人への絶対的な愛」を意味する言葉で「愛しています」と返すような大胆さはなかった。以前のお調子者の彼なら、勢いで言えたかもしれない。

  • しかし、あの時三度もイエスの仲間ではないと否定した、自分自身のどうしようもなさを痛感している今、彼は慎重になっていた。その意味でこのペトロの返答はある意味切なさを感じる。

  • 二回とも人間同士の友愛を意味する言葉で「あなたを愛しているのは、あなたがご存じです」と答えるペトロに、イエスは三回目、ペトロと同じように「人間同士の友愛」を意味する言葉で「わたしを愛しているか」と問いかけた。

  • この「愛する」という言葉の使い分けに、特に意味はないのかもしれない。「わたしのこと愛している?」「わたしのことを好き?」と単純に言い換えるように聞いただけかもしれない。

  • しかし、ペトロが二回とも「人間的な限界の内で愛する」言葉で返すのを聞いて、「それも愛として受け止める」「それでもいい」と示してくれたのではないかとも思う。

  • ペトロにとってはこのやり取り、自分自身の限界を感じる、惨めな自分の姿を痛感するやり取りだったかもしれない。しかしイエスは、そんな限界、惨めさ、弱さを痛感しているペトロを、実は力強く肯定し、受け止めているのではないか。

「わたしの小羊を飼いなさい」

  • 三度も「わたしを愛しているか」と聞かれて悲しくなったペトロだったが、一方でイエスが「わたしを愛しているか」と合わせて言った「わたしの羊を飼いなさい」という語りかけには、「はい」とも「いいえ」とも反応していなかった。

  • 「わたしの小羊を飼いなさい」と言われたことについて、ペトロは意味を図りかねたのか。

  • 一回目、イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」と言うが、二回目は「わたしの羊の世話をしなさい」と言い直している。三回目は「わたしの羊を飼いなさい」と言う。

  • 「羊」と「小羊」、「飼いなさい」と「世話をしなさい」の言い換えに特に意味はなく、畳み掛けるように言っている。

  • イエスは、ご自分について来る人たちのことをよく羊にたとえていた。以前、自分を探し求める大勢の群衆の「飼い主のいない羊のような有り様」を見て、深く憐れんでいた。

  • またイエスは、「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と言いながら、自分のことを「わたしは良い羊飼いである」と話していた。

  • つまりイエスはペトロに、「ご自分のように」人々に働きかける者になりなさいと言っている。

  • ペトロは、イエスの「わたしを愛しているか」という問いかけに「それはあなたがご存じです」と歯切れの悪い返答しかできない、人間的な限界の内でしか「愛しています」と言えない自分が、イエスのように人々に働きかける者になるというのは、大きな重圧に感じたのではないか。

  • ところがイエスは「わたしを愛しているか」と合わせてそうするように言ってくる。だからこそペトロは、「はい」とも「いいえ」とも言えなかったのかもしれない。

  • しかし、イエスの羊を飼う者、イエスの羊を世話する者となるのに必要なのは、完璧な指導者の資質でも、人格的に立派なことでもなかった。「イエスのように」なるということはそういうことではなかった。

引かれていく羊のように

  • ペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と言うイエスは、「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と言う。

  • この言葉は、むしろ「羊を飼う者」よりも、「犠牲の小羊」を連想させる。ドナドナの歌で引かれていく子牛のようなイメージ。神への犠牲として屠るために連れて行かれる小羊のイメージ。

  • なぜ「わたしの小羊を飼いなさい」と言いながら、イエスはこんなことを言うのか?

  • ペトロについて言った「両手を伸ばして」という表現は、実は「十字架に磔にされる」ことを示す表現でもある。この言葉は実は、イエス自身の姿を暗示するものでもある。

  • 羊を飼う者であるイエスは、むしろ犠牲にされる小羊のような姿になった。ご自分の羊を飼うようペトロに言うとき、ペトロにも立派な羊飼いであれとは言わない。行きたくないところへ連れて行かれる小羊のような姿を肯定する。

  • イエスに対して、アガパーンという「絶対的な愛」ではなく、「人間的な限界の内で愛する」フィレインという言葉でしか返せなかったペトロに、イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と言い、ご自分の羊飼いとしての姿がどういうものだったか思い出させる。

  • そしてペトロにも、「行きたくないところへ連れて行かれる」、具体的には処刑されるという「弱く」「惨めな」最後を迎えることを暗示しながら、「わたしの羊を飼う」ということは、むしろそのような姿になることなのだと伝えている。

  • ヨハネによる福音書は、この後ペトロがローマで迫害に遭い、処刑されること、つまりは「殉教」することを指してイエスはこのことを言われたのだと伝える。

  • キリスト教はその歴史の中で「殉教」というものを美化し過ぎてしまったのかもしれない。それはそもそも「誰もが出来るわけではない立派なこと」ではなく、客観的に見れば失敗に終わった姿、惨めで弱い限界に満ちた姿だった。

  • 「イエスについて行く」「イエスに従う」「イエスに倣う」ということは、成功者にならねばならないということではない。イエスはペトロに、うまくいかない、何も出来ているようには思えない、惨めな弱い姿であっても、それが実は「神の栄光を現している」姿なのだと伝えてくれているのではないか。

わたしたちがイエスについて行く時

  • 今日は礼拝後に鈴蘭台教会の定期総会がある。昨年度の振り返りと共に、今年度の教会の歩みを皆で話し合う。

  • 振り返ってみた時、コロナ禍、少子高齢化、続いている不況、先行きの見えない世界情勢と、わたしたちにとって「うまくいっていない」「何も出来てない」自分たちの姿を思わせるものがたくさんある。

  • しかしそのような中で、イエスについて行くということ、イエスのように人々に/日常の世界に/働きかける者となるということはどういうことか考える時、わたしたちは打ちひしがれて歩みを止める必要はない。諦め、無気力になることはない。

  • 「どうしようもない」姿のペトロに愛をもって語りかけ、用いてくださったイエスは、わたしたちにも愛をもって語りかけ、「どうしようもない」と思い込むわたしたちを、思いがけず用いてくださる。

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