聖書:創世記45:1-28
解説:「もっと早く正体を明かせばいいのに」族長物語ヨセフ⑩
あらすじ
今日の場面は、いよいよヨセフが兄たちに自分の正体を明かす場面。
ここまでヨセフは、兄たちが自分をヨセフだと気付かないことをいいことに、振り回してきた。
スパイの疑惑をかけて困らせたり、彼らがそれだけは出来ないと言っているのに末の弟を連れてくるよう命じたり、彼らが穀物のために支払った銀を気づかぬ間に彼らの袋に入れて恐怖させたりしていた。
見方によっては、兄たちが手のひらの上で踊る様子を見ていた。兄たちのせいで、散々エジプトで苦労してきた鬱憤を晴らしているようにも見えた。
そんな中、最終的にヨセフは、連れてこさせた末の弟ベニヤミンを奴隷として引き渡せば、自分たちは助かるという道を兄たちに与える。
ベニヤミンが盗んだことにされた銀の杯は、おそらく神聖な占いに使われるものだったので、本来なら極刑、連帯責任で兄弟たちもまとめて死刑になる事態が予想されたが、ベニヤミンを奴隷とすればあとは不問にすると言う。
言ってみれば兄たちに最大の葛藤を与える。
しかし、それでもユダは頑なに「末の弟だけは父のために連れ帰らないといけない。自分を身代わりにしてほしい」と言った。
これによってとうとうヨセフは身を明かす。かつて自分したことを、また末の弟に繰り返すような兄たちではないと知って。
大切な人を通して向き合えない存在と向き合う
ヨセフは兄たちに、「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか」と聞く。ついさっきユダが父のことを持ち出していたのだから生きていることは分かっているはずだが、それでも聞かずにはいられない。
それだけユダが持ち出した父のことが心に響いている。かつてヨセフが荒れ野でいなくなった時も、父がどれだけ悲しみ弱ったか、ベニヤミンまでもいなくなれば、もはや死んでもおかしくないほどに、父はベニヤミンを心にかけていることを聞かされ、ヨセフは大いに揺さぶられる。
兄たちについて言えば、兄たちはかつて、妬みのために幼いヨセフときちんと向き合うことができなかったが、ヨセフを失って悲しみ弱り果てる父を見て、ヨセフという存在のかけがえのなさを知る。ある意味父ヤコブを通して、やっとヨセフと向き合うことになる(一方でヤコブのえこひいきがヨセフへの妬みを招いたのではあるが)。
ヨセフもまた、父ヤコブへの思いを通して、兄弟たちと向き合い、彼らのしたことを赦すことになる。
兄たちが後悔しているのを知って
自分の身を明かす時、ヨセフは「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」と言う。実際は、兄たちはヨセフを荒れ野の穴に放り込み、イシュマエル人の隊商に売ろうかと話している間に、ミディアン人の隊商が引き上げてエジプトへ売っていた。
長男ルベンはあの時、後でこっそり助けようと思っていたが、感知しない間にヨセフは連れ去られていた。いずれにせよ、ヨセフは兄たちが自分にしたことを忘れていない。
ここまでのやり取りの中で、兄たちは、自分たちがかつて弟ヨセフにしたことを直接告白はしたわけではない。ただ42章では、自分たちが元は十二人兄弟であること、下に弟がいたが失ったことをわざわざ言っているので、ヨセフのことが忘れられない様子は示していた。
また、ヨセフが聞いているとは知らない中で、ルベンが他の兄弟たちに向かって、あの時ヨセフに悪いことをしたのであり、自分たちは今その報いを受けているのだと話していた。
ベニヤミンの袋から銀の杯が見つかり、ヨセフの奴隷にされる事態となると、ユダは「今更どう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです」と言っていた。
この告白は、実際には銀の杯を盗んだわけではないので、かつて自分たちがヨセフにした仕打ちを念頭に置いたものだと分かる。
ヨセフにとってはこれらの兄たちの様子で十分、兄たちがかつて自分にしたことを後悔している様子がわかったのかもしれない。兄たちから謝罪の言葉を聞くまでもなく、もう十分だと思えたのか。
兄たちと向き合うことで神の働きと向き合うヨセフ
・ 長い遠回りをするような形で、傍から見ると兄たちを手のひらの上で弄んでいるようにも見える形で正体を明かさずにきたが、ここに来てヨセフは兄たちをやっと「赦す」ことになる。
・ それは、兄たちから謝罪の言葉を聞いたからではなく、神がすべてのことをうまく運ばせたのだという理解からだった。
・ ヨセフは、「兄たちのしたことによってエジプトへ売られた自分は、巡り巡ってエジプトの宰相となり、ファラオの次にエジプト全土を治める者となった。それによって、飢饉にあえぐイスラエルの家族が助かる道を整えられたのだ」と話す。
・ ただし、ヨセフがこういうふうに思えるようになったのは、過去に自分にしたことについて、今の兄たちの本音と向き合えたからではないか。兄たちが穀物を求めて来たのを知った時、最初から正体を明かして「神がすべてうまく事を運んでくれたのです」とは言えなかった。
・ 振り返ってみれば、神が助けてくれていたのだと思うには、ヨセフはまず兄たちと向き合う必要があった。兄たちが今のヨセフの立場を知ることなしに、かつて自分にしたことについてどう受け止めているのかを知らずには、神の導きと向き合うことなど出来なかった。
・ 逆に言えば、わたしたちが神と向き合うということは、人と向き合うことと切り離さずにはいられないということ。
・ わたしたちもまた、もしかすると最も向き合うことが難しい存在を通してこそ、神の働きを知ることになるのかもしれない。
引きずってきたものからの開放
兄たちの反応は、詳しくは語られない。驚き、絶句している様子、ヨセフと首を抱き合って泣く様子が淡々と描かれる。
兄たちにとって、この瞬間いろんなことが精算されている。ヨセフ自身から持ち出されたことで、かつての自分たちがヨセフにしたこと、父ヤコブを騙し続けてきたこと、自分たちが引きずってきたいろんなものから、思いがけず解放される。
ベニヤミンもヨセフと首を抱き合って泣く。この反応を見ると二人とも面識があるように見えるが、物語冒頭ではベニヤミンは一切登場せず、ベニヤミンの出産によって死ぬことになる母ラケルもまだ生きている様子があった。今は亡き母を持つ唯一の兄弟に会えたということで二人とも泣いているのか。真相はわからない。
思いがけないエジプト人の反応
ヨセフの兄弟たちが来たという知らせはファラオの宮廷に伝わる。43章で「当時、エジプト人は、ヘブライ人と共に食事をすることはできなかった」「それはエジプト人のいとうことであった」と書かれていた。
つまり、ヘブライ人である兄弟たちが、今エジプトの宰相であるヨセフの兄弟であるということは、エジプト人にとって歓迎されることではなかったはず。扱いに困る。
にもかかわらず、「ファラオも家来たちも喜んだ」と語られる。さらにファラオは、ヨセフの父と兄弟たちを、大飢饉においても食料が豊富にあるこのエジプトの地に移住させるよう勧めてくれさえする。
そもそもの発端と向き合う
一旦父の許に送り出す時、ヨセフは兄弟たち全員に晴れ着を与える。晴れ着は、かつてヨセフが父から唯一自分だけに与えられ、兄弟たちの妬みを買ったもの。そもそもの発端。ヨセフがそれを全員に与えるのは象徴的。
一方で、ベニヤミンには銀三百枚と晴れ着五枚を与えるという、えこひいきをしている。かつて争いの種となった処遇をヨセフも繰り返すが、その際兄弟たちに「途中で、争わないでください」と念を押す。
なぜ争いの火種を投入するようなことをわざわざするのかと思うが、ハラハラする読者をよそに、兄弟たちは平和に帰り、父ヤコブにヨセフが生きていることを伝える。
兄たちがかつてヨセフに対してそうだったように、ベニヤミンに対して妬みを募らせる様子はもうない。
注意したいのは、家族間の歪みがなくなったわけではないこと。ヨセフは弟ベニヤミンに相変わらず固執するし、偏った愛を注ぐ。父ヤコブもその意味では変わらない。家族間トラブルの引き金になりかねない「えこひいき」は解決しない。
兄弟の間で途中から中心的な役割を果たさなくなったルベンや、この間人質として囚われていたシメオンなど、家族の中にはまだわだかまりや問題が残っている。
しかし、「えこひいき」してしまうヤコブやヨセフに対して、兄たちもまた、この間の経験の中で赦せるようになったのではないか。自分たちのした過ちが思いがけない結果に繋がったように、ある意味問題なヤコブとヨセフのそのような性格も、神は用いられるのだと思うように慣れたのかもしれない。
ヤコブは最初、兄たちの言う事を信じられないが、ヨセフが父を乗せるために遣わした馬車を見せると事態を受け入れ、元気を取り戻す。
そして、「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい」と言って出発するところで、今日の物語は終わる。